たとえばラブストーリーを考えよう。
二人がキスするまでの経緯を考えよう。
リアルなところは、
そんなフィクションみたいな美しいストーリーがあるわけではない。
ぶっちゃけ酔っててやっちゃった、という例もあるだろう。
断りきれず流されて、という場合もあろう。
明確な動機と理由があり、
誰もが分かる行動などないものかもしれない。
あるいは、
フィクションのような美しいものではなく、
実際のキスは汚かったりする。
人が飯を食うのが汚いのに似てるかもね。
だけど、
フィクションのラブストーリーは美しい。
それは、
「ラブストーリーは美しくあってほしい」という願望が、
人の心の中にあるからだ。
性欲に負けてやってしまい、
あとでさんざんにもめて捨てる、
なんて汚いものよりも、
美しい風景と美しい言葉と、
そしてなによりも美しい気持ちの末に、
必然的に結ばれて欲しいのだ。
それは願望ともいえる。
あるいは、自分の人生で無しえなかったことの、
代償行為ともいえる。
「こうであってほしい」
「こうあるべき」の代表が、
ラブストーリーじゃないかと思う。
だから、
「リアルだからこれでいいじゃん」とか、
「現実なんてぶっちゃけこんなもんでしょ」とかは、
いらないのだ。
人は夢を見に劇場まで来るのだ。
悲惨でつらく汚い現実が劇中であったとしても、
愛くらいは美しくあって欲しいものではないか。
と、いうことで、
たいていラブストーリーは美しく、
見ごたえのあるものになる。
少女漫画でもそうだし、
ラブロマンスものでもそうだし、
ハーレクインでもそうだし、
ハリウッドアクション映画ですら、
ラブパートはそういうものだ。
つまり、我々には、
「美しい愛でうっとりしたい」という欲望があるわけ。
汚いセックスばかりやってきたから、
そういう場面を書くのがリアルだ、
と思っているなら、
映画とは何かをわかっていない。
美しい何かを見たいときが人にはあるということだ。
女性は、きれいなものやかわいいものだけ見ていたい、
という願望をストレートにいうことがある。
その欲望をフィクションに求めたりする。
「どうだお前らが大事にしている〇〇は、
リアルではこんなもんだぜ、これくらい汚いものだ」
というのを露悪趣味という。
露悪でなくても、事実陳列罪でもいいや。
リアルを見たくないときがある、というわけでもない。
「うっとりするほど美しいものは、
映画にしかない」と、逆に言っていいんじゃない?
だから、映画にふさわしいラブを用意するんだよね。
つまり、映画の「格」を持ってるか、
ということを言おうとしているのかもしれない。
他の名作では、
どういう美しさがあったろうか?
ラブだけに限らなくて、
別の何かでもいい。
美しさはときにロマンといわれることもあるよね。
人は美しい。
人には、世界には、ロマンがある。
そういうものが映画には必要だ。
そして、そういうものは、映画にしかないともいえる。
ビジュアルや音楽やその他の複合芸術としてはね。
「まるで物語みたいな〇〇」なんてことが、
たまーにリアルでもあるけど、
実はそれを求めているんじゃないか。
ということで、女性を口説くときは、
ロマンチックにしすぎてしすぎることはないのかもしれないね。
あなたが今書いているのは、
あなたのリアルを投影した、
まるで現実のような世界ではない。
皆が求める、映画でしか味わえない、
とても美しい世界だ。
ラブパートだけがそうであるとは限らない。
他の何かでもいい。
美しい何かがあると、それはその映画のオリジナルになるだろう。
それが通りいっぺんのものなら平凡な美しさになり、
それが見たこともない新しい美しさならば、
オリジナルな強さを放つだろう。
そして、新しい美しさを追及することを、
美学とか芸術とかいうんだよね。
芸術というと難しいけどさ、
「この美しさ、よくない? 新しくない?」
ってのを共有する会だと思えばいいんだよな。
それがグロテスクだったり、
多くの人が賛同しないマニアックなものから、
誰もが息をのむ、分かりやすい美しさまで、
グラデーションでいろいろあるだけの話さ。
それは大きな美しさでもいいし、
小さな美しさでもいい。
どれだけ心に刺さるかだよね。
おそらく、
物語とは、とある美しいことについて、
作者と観客が共有することをいう。
それが一枚絵なら写真や絵、
それがスタイリングならば衣装、
それが照明ならば照明、
それが音楽ならば音楽、
それがアクションならアクション、
をそれぞれやればいい。
それらではない、人生の凝縮されたものに、
共有できる美しさがあるか、が、
物語ではないかと思う。
2024年03月26日
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