2024年02月01日

脚本とは原作のセリフを並べている仕事ではない

原作ありの脚本なんて簡単だろ、
セリフを順番に並べていけばいいんだから、
なんていう誤解をたくさんネットで見る。
もちろん、煽りの為の大げさな言いようだとしても、
誤解は解いておきたい。

脚本家はどんな仕事をしているのか?


まず、長さを整える仕事から入る。
仮に原作のセリフや場面やト書きなどを、
全部文字起こしするとしようか。
それが放送の長さとは、ほぼ100%違うのだ。

文庫本一冊の小説の二時間の映画化だと、
10万字を4万8千字に縮める。
ざっくり半分に切るわけ。
実際4・8万字ってことはないから、
体感1/3に切る。

漫画はどうだろう。一巻で60分も無理かもね。
ざっくり1/3巻くらいだろうか。
60分10話だとして、
3巻と1/3くらいしか描けない。
10巻の原作ならば、1/3に縮めないといけないわけだ。

じゃあ、何を取捨選択するか、
という問題になってくる。
原作の理解力が必要だ。

これをカットしたら実写化したとは言えない、
という重要なエピソードを落とすわけにいかない。
あるものとあるものを縮めたら唐突すぎるから、
それらを自然につなげて見せられるように、
新エピソードを創作する必要があるかもしれない。

あるいは、登場人物をカットしてそれらに関するものを全カットすることもある。
ある人物とある人物の要素を足して新登場人物にして縮めることになるかもしれない。

そして、
縮めたものが、
「別物ではあるものの、おおむね原作と同じものである」
という風にしなければならない。

要約とは違う。
臨場感を保ちながら、
縮めなくてはならない。
早口でいえばいいというものではない。
原作の空気感を保存しながら、
なおかつ全体尺は1/3にしなければならない。

それがとても難しいことは、
火を見るより明らかだ。
セリフを順番に並べているだけでは、
この作業は無理だろうね。
翻訳という意味が一番ふさわしいだろうね。

あるものをたとえば1/3に縮めて、
読後感や臨場感やテーマ性や時代性を、
同じものにするって作業だ。

しかも決めの部分で改変すると違和感がある。
原作のどこが大事なのか、どこは変えてはいけないか、
じゃあどこなら変えられるのか、
ということを見極める、とても繊細な作業なわけだ。

ためしに、何か原作を選び、
やってみるといいだろう。
60分は400枚原稿用紙で60枚だ。
めんどくさければ30分ドラマでもいいよ。
30枚にまとめて、10話分やってみて。


さて、ドラマに特有な困難を加えようか。
1話ごとの終わりに「ヒキ」が必要だ。

次回もみたいと思わせる何かだね。
「つづく」の形にして、次週まで気になる何かを残してもいいし、
今回のエピソードが感動や爆笑で終わり、
ああ満足した、次週も見よう、と思わせる何かでもよい。
ヒキやサゲなどと思えばよい。

仮に10話のものだとして、
原作の一連で、そのような切れ目が9あるわけではない。
その線を引かなければならない。
ということは、
単に1/3に縮めるだけではなく、
9の切れ目を入れて、
毎週楽しみに出来る、満足できるものをつくらないといけないわけだ。

この作業を、シリーズ構成という。

原作をまずどうやって切り刻み、
どのような話の構成として、
全体を60分×10の単位に構成しなおす、
という作業がまずできなければならない。

シリーズ構成は、
プロデューサーがやることもあるし、
チーフ脚本家がやることもある。

風魔の場合は僕がやった。
切れ目なくバトルが続く原作を、
「部活対決アンド忍び対決」という、
30分毎回同じパターンにはめ、
徐々に原作のパートを進めていく、
といういわばウルトラCのシリーズ構成だと思う。
それは何も新しいアイデアではなくて、
原作の初期のアイデアだし、
毎回怪人がでてきて倒す、特撮のフォーマットにも沿ったものである。
だからまるでそのためにあつらえたように見えたはずだ。

このように大胆なシリーズ構成にする場合もあれば、
深夜食堂のように、
シリーズ構成自体は淡々としている場合もあろう。

それは原作をどう読み込み、
どのようにドラマの尺に再構成するべきか、
という翻訳の力量が試されるわけだ。

たとえば原作が100話あったとして、
どの10話を選ぶかでも変わるよね。
どれが同じ印象を与えるものになるのか、
というチョイスは、
長い原作であるほど難しくなるだろう。

また、原作1話と2話を縮めてドラマ1話などの、
つぎはぎ作業も必要になってくるだろう。
ドラマは必ず毎回30分とか60分に尺が決まっているから、
オーバーしたりショートしたりは許されない。
だから、
それに合わせる必要も出てくる。
カットするセリフや、足すべきセリフも出てくるだろうね。

これだけ考えても、
脚本家の仕事が、
原作のセリフをただ並べるだけではないことが分かるだろう。
(もちろん、これにオリジナリティはない。
あるとしたら、「解釈力」と「再構成力」だ。
脚色力といってもよいだろう)


構成の話をもう少し続ける。
30分ドラマで考えると、
オープニングからアバン(大体5分)、
Aパート(大体10分)、
Bパート(大体10分)
と、3つの大きなパートに分かれる。
間に入るのはCMである。
CMで分断されるので、
CM前はヒキやサゲである必要がある。
まだ次に続くのに話が続いていたら、
「いきなりCMに入り、何事もなかったかのように続く」という、
不自然なものになるからだ。

ということは、原作をたとえば10の単位に収めたのに、
また3つのブロックに分けないといけないわけだ。
3つのヒキまたはサゲになるように、
ストーリーラインを収束していく必要が出てくる。
原作にこのような構造はない。
だからつくるしかないわけだ。
原作の切れとしてもちょうどいいところで、
CMに入らなければならない。
だから、そうなるように、
前後を調整しないといけないのだ。

まだオリジナリティを入れる余地はないよね。
しかし、
カットしたり足したりすることに、
オリジナリティが入ってくる。
創作しなければ次につなげないエピソードをつくるとして、
それが「原作にはなかったのに、まるで原作の一部のようなもの」
である必要があるよね。
なぜなら、そうでなければ不自然だからだ。


このようにして、
3×10=30に、
原作を再構成することが、
まずは脚本家の仕事になるわけ。
そして、かつ面白く、原作と同じ読後感が必要なんだよ?

バカにはできないよね。
なんなら、原作者より力量が試されることになると思うよ。
(別ベクトルでだけど)


さあ。これだけやってればいいんだっけ。
実写化にはまったく別の問題が立ちはだかる。
予算である。

全てはこの範囲内でやらないといけない。
金のかかるシーンはカットして、
金のかからないシーンを増やさないといけない。

芸能人は出演費に金がかかる。
日単位だから、
一日でなるべく撮れるように、
シーンの長さを調整する必要がある。
あるシーンから別のシーンへの移動時間も一日の中に入るから、
なるべく近くで撮れるシーンである必要が出てくるね。

芸能人は一人ではない。
キャスト分だけいる。
それらをすべて調整済みの脚本に仕上げないといけない。
だから、あのシーンはカットする、
あのシーンからあのキャラはカットする、
などが出てくるんだよね。
もちろん、削るだけだと痩せるから、
どこかでは豪華なシーンにしたり、
どこかでは満足いくシーンにする必要が出てくる。

もとの原作からしたら、
骨抜きになってしまう危険しかないよね。
それをうまく調整して、
原作と同じ読後感、本質にしなければならないわけ。

なまなかな筆力ではできないよね。
だから原作の実写化は失敗するのだ。


できるのは、
うまく翻訳した人だけだ。
そしてその例は極めて少ない。
(数だけ数えればたくさんあるかもだが、
確率という点では天文学的じゃない?
デビルマン忘れた?)

なぜなら、
原作への理解力と、
脚本そのものへの理解力が、
半端なくいるからだ。
そんな苦労するくらいなら、
オリジナルをやったほうがはるかに楽なんだよね。

でも、
半端なく必要な理解を避けて、
「俺流の〇〇をつくればいいや」とか考える、
中途半端な脚本家がいるから、
失敗はあとを絶たないのだ。

これにOKやNGを出し、
よければ原作者チェックに回す仕事のプロデューサーが、
本来いるはずだが、
その人に読解力や再構成力がない限り、
「脚本家がこれを上げてきました」と、
丸振りするだけだろうね。



ということで、原作の脚本化は、
失敗しがちだ。
だって難しいもん。どう考えても。

セリフを順番に並べて脚本になるなら、
あんたでも出来るよ。
そうじゃないから、こんなに失敗しているんだ。

ちなみに、ドラマ風魔のコンテ(脚本とほぼ同じ)は、
僕の担当回はこのブログに挙げている。
作品置き場参照のこと。

原作と比べてまったく異なるが、
原作と似たような読後感、本質感が残っていることに注意せよ。
ディテールは全然違うよ。
それは漫画が人間になるんだからそういうものだ。
でも風魔を見たなあ、という感覚が残るのが、
優れたところだ。
それは、翻訳力、再構成力以外の、
何物でもないということだ。

ちなみに、
風魔は予算がなくて、
「CGや合成カットは1話20カットまで」
という制限があった。
10話や9話で少なくして、
1話2話でふんだんに使ったりしている。
そういう足し引きも、脚本家や監督の仕事だったりするね。


脚本家が原作のセリフを並べているだけで仕事になると思うならば、
やってみればいいさ。
オリジナルを書くほうがよっぽど楽だよ。
でも、原作つきのほうが楽だろと舐められて、
脚本料も少ないのさ。
僕は業界全体が間違っているとすら思っている。


ちなみに、
テレビやプロデューサーの目的は、
視聴率を稼ぐことであって、
感動させたり笑わせたり感心させることではない。
だから、視聴率の高い芸能人を、
なるべく多く映せ、つまり出番を増やせ、しかし予算は同じ、
ということすら言ったりするよ。
その調整のためには、
セリフを並べているだけじゃすまないよね。


脚本家は楽な仕事じゃない。
だけど、何をしているのかよくわかられていない。
この記事の趣旨は、つらいよーといいたいわけではなく、
何をしている仕事か知ってもらうことである。

この条件で名作を書け、
といわれることが、脚本家という仕事だ。

あまりにも報われないよね。だから書き手になりたい人が減って、
いま負のスパイラルに陥っていると思うよ。
だから脚本家のギャラは、60分一本最低でも100万円、と僕は思うね。
posted by おおおかとしひこ at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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