その人が、
どう思い、どう感じて、何を考えているかを感じ続けることが、
感情移入だから、ではないだろうか。
感情移入や共感が一度行われると、
観客は、その人の感情や思考を想像し、
頭の中でトレースするようになる。
それが離れない限り、
その人の感情に寄り添い、
つらいことがあればつらくなり、
喜びがあれば喜ぶ。
泣き、笑い、怒り、安心し、悲しみ、それらをともにすることが、
物語を見ることだといってもよい。
じゃあ、
ストーリーは見ていない?
逆に、ストーリーを見るとはどういうこと?
設定を考えて、
「ここは理解したので、あっちはきっとこうだろう」と、
世界の向こうを想像したりすることだろうか。
あるいは、
「これをこのようにしたら、
このような結果になるだろう」
という予想だろうか。
前者は時間軸を持たない、静的な世界の想像だね。
ストーリーそのものではなく、設定を楽しんでいるわけだ。
後者は世界に操作を加えたときにどうなるかを想像しているから、
時間軸を持ち、
ストーリーを楽しんでいる状態と言えようか。
「ここでこんなことをしたらこうなるだろう」
「ここでこれをしないとこうなるだろう」
は、よくストーリーの分岐点で考えてしまうことだろう。
しかし、これが落ち着いて考えられるのは、
落ち着いたシーンのときだけだ。
忙しいものが落ち着いて、
一段落したときだけだろう。
じゃあ逆に一段落していないときはどうしているかを考えると、
キャラクターに感情移入していると思うんだよね。
となると、
やはりほとんどの時間帯、
キャラクターの感情に寄り添い続けているというわけだ。
人はストーリーを見ていない。(暴論)
予測や意外なことなどはキャラの感情で理解して、
キャラと乖離して客観視しているわけではない。(暴論)
ましてや、世界の名作の構造と比較して、
このストーリーのオリジナリティを分析しているわけでもない。(暴論)
あるいは、
三幕構成やビートシートを考慮して、
「そろそろ〇〇な展開になるだろう」と予測しているわけでもない。(暴論)
たぶん、
全部やっているのは、われわれ脚本を書くような、
特殊な人なんだろうなあ。
先日カメラマンと飲んだんだけど、
彼はやっぱり絵を見ていて、
ストーリーのことはあんまり覚えていないらしい。
「あの時あの人は〇〇すべきだった」とか、
「なんであの時〇〇にあの人は気づかなかったんだ」とか、
見終えた人がいろいろ議論するときに、
「そうだったっけ?」と覚えていないんだって。
その代わり、
いい絵は写真記憶として残るから、
「あのカットはあっちに照明があって……」
なんてことはすぐに思い出せるらしい。
職業病的な見方だなあと笑っていたが、
ひょっとしたら、
先ほどの分析的な見方は、
脚本家しかしていない可能性があるな、
というのが本題だ。
じゃあ、
職業病がない、ふつうの観客は、
何を見ているんだろう?
と思うと、
「キャラクターの感情」なんだな、
ということがわかる。
だってそれが感情移入していることだからね。
ということで、
キャラクターの感情が面白い、
リアリティがある、
解像度が高い、
真に迫っている、
うまく転換する、
観客の気持ちが離れない、
ことは、
面白い脚本の必要条件ということになるね。
もちろん、
それで十分条件にならないのは、
構成や構造の要素が入っていないからだが。
ひょっとすると、
僕が脚本の構成の話をするとき、
脚本家以外は、
さっぱりわかっていない可能性があるな。
料理の専門家じゃないと、
具材や調味料や調理法に分解して、
料理を見れないことに似ているかもね。
ほとんどの人には、
ラーメンはラーメンであり、
スープの中身や調理法の工夫などは、
「よくわからないこと」なのかもしれない。
で、専門家じゃなくても感情だけは理解できるから、
感情を揺さぶることは正解だし、
感情が途切れて、何をしているか分からなくなるのは、
悪手なんだよな。
2024年03月29日
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