2024年03月29日

観客が見ているのはストーリーではなく、キャラクターの感情説

その人が、
どう思い、どう感じて、何を考えているかを感じ続けることが、
感情移入だから、ではないだろうか。


感情移入や共感が一度行われると、
観客は、その人の感情や思考を想像し、
頭の中でトレースするようになる。
それが離れない限り、
その人の感情に寄り添い、
つらいことがあればつらくなり、
喜びがあれば喜ぶ。
泣き、笑い、怒り、安心し、悲しみ、それらをともにすることが、
物語を見ることだといってもよい。

じゃあ、
ストーリーは見ていない?

逆に、ストーリーを見るとはどういうこと?
設定を考えて、
「ここは理解したので、あっちはきっとこうだろう」と、
世界の向こうを想像したりすることだろうか。
あるいは、
「これをこのようにしたら、
このような結果になるだろう」
という予想だろうか。

前者は時間軸を持たない、静的な世界の想像だね。
ストーリーそのものではなく、設定を楽しんでいるわけだ。

後者は世界に操作を加えたときにどうなるかを想像しているから、
時間軸を持ち、
ストーリーを楽しんでいる状態と言えようか。
「ここでこんなことをしたらこうなるだろう」
「ここでこれをしないとこうなるだろう」
は、よくストーリーの分岐点で考えてしまうことだろう。

しかし、これが落ち着いて考えられるのは、
落ち着いたシーンのときだけだ。
忙しいものが落ち着いて、
一段落したときだけだろう。
じゃあ逆に一段落していないときはどうしているかを考えると、
キャラクターに感情移入していると思うんだよね。

となると、
やはりほとんどの時間帯、
キャラクターの感情に寄り添い続けているというわけだ。

人はストーリーを見ていない。(暴論)
予測や意外なことなどはキャラの感情で理解して、
キャラと乖離して客観視しているわけではない。(暴論)
ましてや、世界の名作の構造と比較して、
このストーリーのオリジナリティを分析しているわけでもない。(暴論)
あるいは、
三幕構成やビートシートを考慮して、
「そろそろ〇〇な展開になるだろう」と予測しているわけでもない。(暴論)

たぶん、
全部やっているのは、われわれ脚本を書くような、
特殊な人なんだろうなあ。


先日カメラマンと飲んだんだけど、
彼はやっぱり絵を見ていて、
ストーリーのことはあんまり覚えていないらしい。
「あの時あの人は〇〇すべきだった」とか、
「なんであの時〇〇にあの人は気づかなかったんだ」とか、
見終えた人がいろいろ議論するときに、
「そうだったっけ?」と覚えていないんだって。

その代わり、
いい絵は写真記憶として残るから、
「あのカットはあっちに照明があって……」
なんてことはすぐに思い出せるらしい。
職業病的な見方だなあと笑っていたが、
ひょっとしたら、
先ほどの分析的な見方は、
脚本家しかしていない可能性があるな、
というのが本題だ。

じゃあ、
職業病がない、ふつうの観客は、
何を見ているんだろう?
と思うと、
「キャラクターの感情」なんだな、
ということがわかる。
だってそれが感情移入していることだからね。


ということで、
キャラクターの感情が面白い、
リアリティがある、
解像度が高い、
真に迫っている、
うまく転換する、
観客の気持ちが離れない、
ことは、
面白い脚本の必要条件ということになるね。

もちろん、
それで十分条件にならないのは、
構成や構造の要素が入っていないからだが。



ひょっとすると、
僕が脚本の構成の話をするとき、
脚本家以外は、
さっぱりわかっていない可能性があるな。

料理の専門家じゃないと、
具材や調味料や調理法に分解して、
料理を見れないことに似ているかもね。
ほとんどの人には、
ラーメンはラーメンであり、
スープの中身や調理法の工夫などは、
「よくわからないこと」なのかもしれない。

で、専門家じゃなくても感情だけは理解できるから、
感情を揺さぶることは正解だし、
感情が途切れて、何をしているか分からなくなるのは、
悪手なんだよな。
posted by おおおかとしひこ at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック