2024年02月05日

主観と客観と物語

という深い話をしなければならない。
いつかこれはちゃんと腰を据えて整理しないといけないが、
もりやんさんが向こう側から見た世界のことを議論しているので、
いいタイミングだと思い、書いている。

そもそもこれは、
「タイピングするときの姿勢が、
書く態度や作者の視点によって異なるのでは」
という話であった。

だけど、より深く、
物語の構造が反映しているぞ、
と思えてきたので。


もともとの話と向こうから見たものは、
以下のツリーを参照のこと。
https://x.com/catfist/status/1753810149809308092?s=20


もりやんさんは小説を書く人で、
おもにアニメっぽいものをたしなむ感じ。
僕は脚本を書く人で、
ずっと実写の映像をやってきた経緯がある。

で、両者は極論真逆で、
前者は認知から行為を生む選択の物語、
後者は行為から認知を生む経験の物語、
という風にもりやんさんは分析している。

なるほど、真逆のとらえ方があり、
「物語とは何か」と考えるとき、
大きく二つの流派があり、
それは真逆の構造と作り方をもっている、
という分析は非常に興味深い。


僕は映像の人間なので、その話をまずする。

映像というのはもともとは演劇から発達したものだ。
それは、
知らない他人(役者の肉体を持つ)の人生を、
客観視点で眺めることである。

主観視点では見れない。
その役者の中に入ることは出来ないからだ。
だから、
その他人の気持ちは表情や態度やセリフや行動で知るしかない。

「私は今このように感じている」と、
演劇や映画ではいちいち説明しない。
客観から主観を想像して、
「今この人はこう思ったのだな」
「今この人はこれを感じているのだな」
「かつてこの人はこうだったから、今これを思っているのだろう」
などと考えることが、
客観視点の物語の「鑑賞」(の一部)である。

一方、
小説は主観視点を取り込める。
三人称と一人称とう武器があり、主に一人称の地の文でだ。

一人称では、「私は」で書き出すことが可能だ。
つまり自分の思ったことを無限に吐露できる。
一言も言えない映像の客観世界とは真逆で、
登場人物の「中」に入ることができる。
だから、
「その人から見た世界」を描くことが可能だ。
それゆえ、
「その人から見た世界の認識」を描くことが、
小説や一人称では得意だということだ。

(逆に、客観しか道具がない映像では、
「私はこの時こう思ったのだ」は、
独白という演劇チックな芝居でしか不可能だ。
ナレーションという手もなくもないが、
多用は禁物で、映画一本で原稿用紙1枚もナレーションはないだろう。
なぜ禁物かというと、
客観視点で登場人物の「鑑賞」(気持ちのおもんぱかり)をすることが、
客観視点の醍醐味で、
それを失わせる「答え」としての主観情報はマイナス要因なのだ)


もちろん、これは極論をしている。
間になるものもあるだろう。
だけど、
相いれない真逆のものであることはわかると思う。


間の例に少女漫画を上げよう。

少女漫画は少年漫画に比べて、
異常に心の声(ナレーション)が多いメディアだ。
だから見た目は三人称視点の絵だけど、
実質一人称小説に近いと僕は考えている。

たとえば、

 心の声(えっ、そんなこと言ってどうするのよ?
  今更遅すぎ。今から喧嘩しても得るもの何もなくない?)
 外に出すセリフ「でも……」

なんて場面、いくらでもあるよね。

この時、映像や演劇では「でも……」しかいえなくて、
()の中は文脈でわかるように工夫していくのであり、
それが脚本という特殊な文章の仕事である。

しかし一人称形態では、いくらでもここに書き込める。

この()の中が主観視点、
「」が客観視点といってもよいだろう。
少女漫画は「」よりも()が時に雄弁なことがある。
だから僕は、少女漫画は一人称視点だと思っている。

ちなみに、少女漫画の心の声を、
映像で多用したらどのようなものが出来るか?
という実験をした映画に、
「私のかわいくない先輩」がある。
全盛期の川島海荷、はんにゃ金田のラブストーリーで、
少女漫画的技法、ヒロインの心の声がナレーションで延々繰り広げられる。

だが、全盛期の川島海荷をもってしても、
「つまらない」ことが見るとわかる。
それは、
行動しなくて悶々と頭の中でしゃべっているだけで、
全然ストーリーが進まないからだ。

つまり、
映像=客観視点=三人称=行為でストーリーを進展させるもの
であるわけ。
小説=主観視点=一人称=心の声で認知を進展させるもの
と対比してもいいかもしれない。

少年漫画は比較的前者寄りだが、
少女漫画は比較的後者寄りだということだ。
なるほど、
昨今の深夜アニメには、後者的なものが多いかもしれないね。




さて。
これらを創造するときの、作者の視点はどこにあるだろう?

僕は舞台を見ている舞台監督のような、
遠い所では何もできない。
体はそこにいて全体を見ているが、
その登場人物の中にはいって、
気持ちを動かさないとキャラは動かせない。
だから、前のめりになってタイピングする。

一方、
軸足が登場人物の中にいる人は、
そこから世界を見ているから、
もっと引いた視点からでないと、
世界を見れないかもしれない。
だから後傾姿勢でタイピングするのではないだろうか。
もちろん、中と外とを行き来するのだが、
軸足をどっちにしているか、
ということの違いだ。


別の話をする。
小説が映画化に失敗する分析論として、
メアリースーの問題がある。

メアリースーとは、
甘えたやつがいて、努力しないでも成功したくて、
何もしないでもちやほやされて、
なぜか最強の能力を持ち、何も行動せずに、
最後にちょっとだけ行動して幸福を得るパターンだ。
これを一人称で描くと、
甘えは目立たない。
なぜなら、その人の内面を一生描けるからだ。
最強の能力を持ちながら、不遇で、
それを呪い、ときには言い訳しているだけで尺は持つ。
そして最後にその能力を使い、
モテモテハーレムへ帰還するのだ。

これはその人の中から見ていたら最高に楽で幸せなものである。
だから、一人称に向いている。
ラノベはほとんどこんなものであろうと、
先入観を持って見ている。
僕は詳しくないので間違えた認識だったら正してください。

だけど、
これを脚本、映像でやると、
みっともないのである。

「私」でない第三者が、
ただ何もせずにモテたいといい、努力せず、行動せず、
ただ不満を漏らしたりしてなぜかちやほやされ、
そして最後にちょろっとだけ何かして終わる。
「なんでそんなやつが成功者になるんや」と、
反発されること請け合いだ。

これをそのまんま映画化して大失敗したのが、
「落下する夕方」だ。
江國香織の同名小説の実写化で、原作は読んでいないが、
この主人公(原田知世)は、
菅野美穂に導かれて、たださまよっているだけで何もせず、
最後に少しだけ自分の主張をして終わる。
メアリースーの典型的な全能感が出ているため、
僕はこれを「落下する夕方テンプレ」と呼び、
バカにしている。
だけど、たぶんこれ一人称で書いてたら、
わりといい感じの文章で埋まるんじゃないかと思うんだよね。

一人称は中の自分の気持ちいいことをやっていても、
三人称視点で見るとオナニー行為であることがよくある。

そうなってしまうことがとても多いということ。
じゃあオナニーが文学ではないかというとそうではなくて、
そのオナニー具合がよろしければ文学たりえるだろう。
ただ三人称の世界に持ってくると、
世界の広さに比べて、
オナニーの世界はあまりにも矮小ということだ。

ということで、
そういう小説を実写化した場合、
映画だけが丸損する。
そのつまらなさについては、ぜひ「落下する夕方」を見られるとよい。



さて。
認知の物語と、
行為の物語がある、
のようにもりやんさんは分析した。
なるほどそのように思える。

ハリウッド映画はまさに行動こそが主体的で、
セリフなんか最悪なくてもいいとすら考えている。
それくらい、行動だけで記述するべきだと。
(脚本上の構造単位は日本語だと幕だけど、英語ではActだ。
基本はActなのだ)

ハリウッド映画の格言に、
「最良のセリフは無言である」というものがある。
「……」というセリフで表現されるような、
万感の思いこそがぐっと来るというものだ。
ここにいい音楽をかけてエモくするのが映像演出のコツである。

一方小説で「……」はそんなにないだろうね。
外に出る音で「……」となっていても、
地の文ではその内面を詳細に描写すると思う。
その中身こそが小説のだいご味だしね。

ということで、外側を主体とする映像と、
内側を主体とする小説では、
まるで裏表の関係にあるような気がする。


整理しよう。

映像 客観視点 三人称 行為
小説 主観視点 一人称 認知

映像に一人称が現れる=陳腐、オナニー、言い訳
小説に三人称が現れる=ふつうに状況説明

ここに非対称性があると思う。



だから、「実写化」は失敗しやすい。

認知の物語でしかないものを、
行為の物語として語りなおさなければならないが、
それをそのままやるとメアリースーに陥るわけ。
よほど腕がないと難しいのではないか。

「セクシー田中さん」の問題の根本は、
そこにもあると僕は考えている。
少女漫画的(一人称的、認知的)な原作だったかどうかは、
読んでいないのでわからないが、
状況証拠的にはそろっている。
その、行為的な翻訳に、失敗した脚本だったのだろう。
(公平に評価するには、双方をみないといけないのだが、
そこまでやる暇があるなら自分の創作をさせてくれ)


というわけで、
認知型の物語はそれを強化したり弱点を補強すればいいだろう。
行為型の物語はそれを強化したり弱点を補強すればいいと思う。
残念ながら相いれることはないだろう。
だから、
翻訳をする際には、
「裏表であり、相いれない」からスタートしなければならない。

なのに、「人気原作で、セリフを並べたら脚本になるんでしょ?」
という認識でプロジェクトがスタートしているのが、
この素人どもめ、となるわけだ。


というわけで、
どうも僕ともりやんさんは、
外から見たら似たような世界にいながら、
だいぶ遠いところに生息しているようだ。

別に三人称が偉いとか、一人称が偉いとか、
どちらでもないと思っている。
物語というのは、所詮は非現実の架空に見るまぼろしである。
その、具合の出来がいいとか悪いとかが問題になるだけだ。
だから別に対立煽りをしているわけではない。

だけど極端な両者が対話できないわけではなく、
このように議論できることが、
人間のすごいところなんだよな。



大本の最初の話に戻ると、
だからタイピングの癖や姿勢は、
真逆かもしれない。

そして前者のエルゴノミクスと、後者のエルゴノミクスは、
真逆の可能性がある。
なのにひとくくりに「エルゴノミクスタイピング」とか言ってる輩は、
考察が足りなさすぎるのではないか。
posted by おおおかとしひこ at 14:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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