2024年02月08日

メアリースーなのにいい映画(「グッドウィルハンティング/旅立ち」評)

よくよく考えてみると、
全能感溢れる俺がみんなに助けてもらう、
大枠はメアリースー型の話ではある。
だけど「落下する夕方」テンプレに陥らず、
きちんと映画になってるのはなんでだ?
分析してみよう。

ネタバレありで。
とてもいい映画なので未見ならばぜひどうぞ。

見た上で、なぜメアリースーに陥りがちなのに、
そうなっていないか、考えてみたまえ。
はいシンキングタイム。


それは、主人公のウィルが、
常に行動しているからだ。

基本受け身ではある。
親友に迎えにきてもらってたり、
親友のツテでビルの解体の仕事したり。

だけどその中でも、行動はしてるんだよね。

数式を解いて黒板に書きつけたり
(しかも二回。一回ならイタズラかもしれないが、
二回は意思表示に近い)、
不良を殴りにいったり、
バーのインテリを打ち負かしたり、
女を口説いたりする。

このへんを一幕で全部やってるからこそ、
「受け身型の主人公」とは認識されない。
跳ねっ返りという印象を与えている。

そして、
周りの大人に対しても反抗的な物言いをしたり、
行動準拠でやっている。
ただ受け身でチヤホヤされてるわけではないのだ。

特に女がらみでは常に自分が行動してしまう
(女の部屋に誘いにいったり、
代わりに宿題をやってまで外に連れ出したり)
ことが、この主人公はメアリースーではない、
ように見えている。


また、カウンセリング医師(ロビンウィリアムズ)の、
わざと弱いところを突くことで、
彼に傷を負わせたことを反省して、
徐々に態度を変えていく。

この物語の秀逸なところは、
医師の不良へのカウンセリングという形式を取りながら、
実のところ歳の離れた男二人が、
お互いにカウンセリングをしているところなんだよね。

無防備な部分を晒さないかぎり、
本当には理解し合えない。
そんな基本的な人間関係を、
ウィルが学ぶ話でもある。


だから、周りの大人たちは、
どこまでは踏み込んでいいか、
距離をとっている。
その中でも、医師と彼女は、
もっと踏み込んでいって、
彼はそれに対して行動せざるを得なくなるようになっている。

つまり、
描かれるのはActだ。
常に行動として描かれているところが、
この脚本が、メアリースー型の物語なのに、
映画型の行動物語になってるんだよね。

だから、ウィルはカリフォルニアへ「行く」
という行動で終われるわけだ。

これが安直なメアリースー脚本であったならば、
「落下する夕方」テンプレになったはずだ。
すなわち、
数式を解く天才の俺に、
教授やらカウンセラーが必死に尽くしてくれて、
彼女も人付き合いを教えてくれて、
最後に彼女の所へいく、という決断、
一歩前に出て終わる、みたいな。

完全受け身で、最後一つだけ決断する、
というのが「落下する夕方」テンプレであった。

そのようになっていないのは、
すべてウィルの行動が描かれているからだ。

だから、
必然的に彼の性格は攻撃的に設定されてるんだよね。
消極的な性格だと、受け身で終わっちゃうからね。


つまり、
攻撃的な性格は、
脚本家(マットデイモン自身)が書きたかった題材かどうかは置いといてでも、
物語構造のために設定したのである。

僕は昔「アメリカ人はいつも喧嘩している」
(映画の中で)と書いたが、
それはコンフリクトの溝を深めて、
「その結果、行動させるため」なのだ。
コンフリクトはあくまで行動を引き出すための燃料なんよね。
だから、アメリカ人同士が普段喧嘩してるかどうかは置いといて、
アメリカ人は映画の中でいつも喧嘩している。


あとは、
数々の小さなエピソードがとてもうまかった。

野球チームが優勝したあのホームランの話を散々前振り、
地元チームだから二人とも盛り上がったあとで、
「その時私は彼女をバーで口説いててみてなかった」
というのはとてもうまいと思った。
それ以上の価値が彼女にある、と、
セリフで言わなくても伝わるからだ。
しかも自信満々に言うロビンウィリアムズがうまくて、
みじんも後悔してないんだよね。

散々野球の話しで盛り上がったくせに、
たった一言で決めるのがうまいよね。
チケット取りからディテール入って、
実際の試合をインサートしてまで盛り上げて、
「私はそれを見なかった」と、
英語で言えば、I did not see it.くらい短くできる言葉。
強いセリフ=短いセリフで決めるための、
壮大な前振りだ。(実際のセリフは忘れた)


デートでの知的会話もたまらんね。
あんな賢い女いねえかなー。

「アンタはアホなの? 45分も待たせて」
という誘い文句もとてもうまいと思った。
若干メアリースー的ご都合の良さがあるが、
その前に引用ばかりする嫌なやつを、
徹底的に貶めたから、
スルッと進める。
むしろここでアワアワしなくて、
スッと行くことで物語の進行がよくなるんだよな。

だからこそ、
「どんなに頭がよくたって、
人は人とうまく付き合えず、傷つけあってしまう」
という繊細な表現になるんだよね。
その辺うまいなあと思ってみていた。

構成も抜群、狭い世界の切り取りでうまく見せている、
さらにはセリフでの小話も効いてる、
そりゃアカデミー脚本賞取ってもいいよな。

おっさんのバーにランボー教授が訪ねて行ったときの、
有名人は知られてるのに、
「ジョン・ランボー」と言っても店主が首を捻るのはとても良かった。
こういうセリフ劇に一々スパイスが効いてるんよね。

そのあと、
自分では解けなかった問題をウィルがタバコで焼いたのを、
手で消そうとするシーンがたまらなかったな。
俺はこれができないという、
人間の絶望をとてもうまく表現できている。

あとは最後の、
親友が訪ねて来るシーンね。
解体現場で「お前がいなかったら、と思う」
と前振っておき、
本当に「いない」と分かった時のあの顔ね。
分かっててもたまらんよね。


主人公ウィルは、
常に行動する。
孤独だから、一人で行動する。
その孤独感がとても良かった。
同じく孤独だった同志を見つけ、
手紙を入れに行くラスト前のシーンもよかったよね。

孤独だけどメアリースーに陥らなかったのは、
すべて行動してたからだ。



ちなみにこの話は、
異端の天才数学者ラマヌジャンと、
それを見出した凡庸なハーディ教授の話を元ネタにしている。
でも大まかな設定だけで、
すべてはこの脚本家が作った枠組みだ。
見事だ。
posted by おおおかとしひこ at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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