僕はお祭りを提供する側にはなったことないんだけど、
多分これに似ていると思う。
祭りをやろう!
いつにする?→○月○日!
何をやる!→空いてる人いる?
→○○さんと○○さんがつかまった、
これは○○○な祭りになるぜ!
→よし、これは○○○な祭りということで、
○月○日に祭りを決行だ!
各方面に収集をかけろ!
→各方面と調整
→○が出来ない、○が出来ないなど、
ぶつけてみてはじめて分かることだらけ
→よし、○○ということにして、
○○ということにしよう!
今更○月○日で抑えたしな!
→各方面から不満
→でもやっちゃえよ!○月○日で間に合わせるぞ!
→祭り
→終わった?解散解散!いやー盛り上がったねー
って感じなんじゃない?
祭りそのものをやったことはないけれど、
映画やドラマや舞台やCMでは、
大体こんな流れで話が進む。
たぶんオリンピックや万博もそうなんだろうな。
僕は、少なくとも「物語という見せ物祭り」では、
このやり方は間違ってると思う。
なぜなら、
「○○○というコンセプト」が、
どんどん各方面にぶつけてみて紆余曲折するからだ。
なぜ「○○○というコンセプト」を曲げてしまうんだろう?
それじゃ出来なくなるからだよね。
出来る優先で、コンセプトは曲げれば済むからだよね。
これが、いま邦画や日本のドラマやCMが、
つまらなくなってる要因じゃないかと思う。
祭りをやろう!ありきで、
「○○○な祭りをやろう!」になってないんだよね。
普通の人の考え方だと、
まず脚本なり原作なりがあって、
「これをこれからやります」と決めて、
適した人たちを集めてチームを組んで、
その通りにつくっていく。
しかし現実でこんなのを見たことがない。
コンセプトはよれてよれて、
最初と最後では全く違うものになる。
各方面の調整のせいでね。
ダメなPや脚本家は折れる。
祭りをやらないとなると、
各方面にキャンセル料が発生して、
大損になるからだ。
「じゃあやめましょう」といって降りたら、
次呼ばれなくなる。
実写「進撃の巨人」を中島哲也がテスト撮影してたけど、
東宝と折り合わず降板してから、
彼は東宝に呼ばれていない。
あんなに「下妻物語」「嫌われ松子の一生」「パコと魔法の絵本」「告白」と、
ヒットを飛ばしたのに、「来る」まで干され続けた。
彼にとっては起死回生の一作になりえたのに、
少し時代と離れたのか、彼自身が衰えたのか、
思い通りにいかなかったのかよく分からないが、
あまり面白くなかった。
旬を、逃した。
(代わりに出来上がった実写版は、
クソオブクソだから、見た方がいい)
さて。
ショウマストゴーオンという格言が、
演劇の世界にある。
演劇は祭りのやり方に近いのかな。
いろいろあっても、○月○日○時に幕があくことは決まってて、
チケットはすでに売れているからだ。
たとえ完成してなくてもなんとかしろ、
というのが、この格言の意味だろう。
奇しくもジャニーさんの口癖だったそうだ。
つまりジャニーズの興行は、
そうした「間に合わせだとしても、輝け」
という感覚だったのかも知れない。
これは、観客に大変失礼だ。
内容はグズグズですが、
芸は確かなので役者を見てください、
ということだからね。
奇しくも、帝国劇場で、
ジョジョの舞台が準備が間に合わなくて中止になった。
ショウマストゴーオンとは反対の考え方だ。
止まらない列車。
「福島を復興させるため、
東京福島合同で開催する、
史上最大にコンパクトな復興五輪」
というコンセプトの、
どこがtokyo2020に残っていた?
つまり、コンセプトは旗印にすぎない。
列車の進行具合により、
都度書き換えられる旗印だ。
東京五輪の開会式のゴタゴタ覚えてるよね。
旗印は何回変わったろう?
そこに復興五輪のコンセプトが、1mmでも残ってたかね?
なんで無観客試合なんてやったんだっけ?
「いまさらやめられない」からだよね。
日テレのPがもしセクシー田中さんの件で会見するとしたら、
この、旗印がどれだけ変わったのかを明らかにしない限り、
「なぜ原作を大事にできなかったのか」は、
明らかにならないだろう。
つまり、
旗印はたったひとつ、
そのゴールを目指してみんなが働く、
という理想的なつくられかたは、
今の邦画、ドラマ、CMには、
あまりないのではなかろうか。
だから、グダグダなものばかりつくって、
ブロッコリーポスター、つまり芸のある人=芸能人が、
客寄せパンダ役をするしかないのだろう。
だって中身は朝令暮改なんですもの。
その、
旗印に責任を持ち、
その旗を振るのがPという仕事だ。
「うるせえな、旗印はちょいちょい変わるんだから、
原作者が自分色に染めようと思ってんじゃねえよ」
って思ってたかどうかで、
世間の反応は変わるだろう。
そしてそれが図星だから、
いつまでたってもPの3人は出てこないのだ。
小学館全体が、日テレ全体が、
そのようかはわからない。
だけど、小学館として、とか、編集部一同とか、
個人名が出てこないのがとても気になる。
チームで責任をとるのが社というものだが、
発言はすべて責任逃れ。
止まらない列車は、どこへ行くのだろう。
祭りが終われば解散解散、二度とやらねえぜ、
ばかりになるのだろうか?
地元の祭りを毎年仕切ってる人は、
また違うのだろうか?
人が集まり、人を集め、
それを毎回満足させること。
それはそんなに難しいのかな?
満足できそうなコンセプトありきで、
それを実現すればいいだけじゃないの?
そのコンセプトについては、
朝まで喧喧諤諤やって、
きちんと決めればいいじゃない。
誰か、そうできない理由をおしえてくれ。
(追記)
次の春から、
小学館の漫画原作×日テレの実写化がまだ控えていて、
しかもそのPが「セクシー田中さん」と同じ人なんですってよ。
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/25852637/
なるほど、止まらない列車は二両(かそれ以上)あったんだな。
一件だけを考えずに、
数珠繋ぎかー。
そりゃ小学館も日テレも私たちは悪くないとコメントを控えるわな。
次の仕事にさしさわるもんな。
2024年02月09日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック