もりやんさんがさらに議論を進めていて、
ひと段落するまでツッコミを控えている。笑
議論の核のおもしろさは、
「世の中の物語には、認知型/行為型の両極があり、
タイピングや思考のありかたも同様、
それらに応じた両極があり、原則一気通貫している」
というところで、
これは今までに誰も議論していなかった話だろうね。
さて、認知と行為かー、
などとつらつら考えていたら、
薙刀式の右手ホームキーが、まさにそうなっとるんですわ。
配列図の右手部のみ。
議論の対象でないところは「・」表記。
・・るす・
・あい・・
・な・・・
これが薙刀式の中核部だ。
右手人差し指ホームJに、第一の音「あ」、
最強のJIアルペジオに「ある」、
その一つ下の段にペアのようにMKアルペジオ「ない」、
そして薬指中指のOIアルペジオ「する」
が、
薙刀式の三大アルペジオである。
存在/非存在/行動、
という三つの中核的概念を、
右手の最速3アルペジオに仕込んだことが、
薙刀式の「物語を書く配列」の中心思想である。
で、
ある/ないは、まさに認知の核心だし、
するは、まさに行為の核心やんけ、
などと気づいたわけだ。
ふむ、僕は本能的に、
物語の両極端なものであるところの中心概念を、
まさに中核に選んでいたようだ。
逆に、
このように筆記用具(物理キーボード、論理配列)が、
なっていないことに、
僕は強く違和感を覚えていたらしい。
中核の言葉を中核的な運指で打てないのが、
道具として優秀とは思えなかったわけ。
剣道で最初に習うのは「面」だろう。
それが最も合理的で人殺しの技として最も簡単で、
日本刀を一番素直に使えるからだ。
このように、用と体が一致しているのが日本刀だけど、
キーボードはそうなってないと思ったんだよね。
じゃあ、書くこと、ことばの、
中核概念はなんだろう?
わたし?おもう?(我思う故に我ありみたいな)
ぼくときみ?(主体と客体)
我と神?(自我と世界でもよい?)
…
などとずっと考えてて、
やっぱJは「あ」であるべきだよなー、
などと考え、
ある日銭湯の中で、「ある」「ない」「する」がアルペジオになるぞ、
と思いついたのが薙刀式のはじまりだった。
勿論、頻度統計で、「い」は一番出るし、
「ある」「ない」は二連接統計でも上位だし、
という知識もすでにあった。
だけど、
「存在/非存在/行動」というのは、
物語を書く上での本質では?
などと思い、
これにしたのであった。
このような、
「日本語としての概念を中心に据え、
そこからの展開として運指を考える」
という考え方で設計されたのは、
今のところ薙刀式しかなさそうだ。
もちろん、
「何が中心であるべきか」については強い思想が必要そうで、
人によっては全然異なる、尖った配列になる恐れもある。
だからか、これまでの配列設計理論では、
「客観的な(=主観に陥らない)統計を基準としよう」
というのが不文律であったろう。
だから、統計トップ3「い」「う」「ん」が、
FJ付近にあるカナ配列がほとんどだ。
ところが薙刀式はそのセオリーを破り、
「あ」がJであるべき(「あ」は統計的には下位)とか、
「存在/非存在/行動」が三大アルペジオであるべきとか、
まあ全然違うことをやっている。
しかし、
そのせいか?
とても覚えやすく(記憶負荷や脳負荷が小さく)、
書きやすい配列だと自負している。
(覚えやすさについては、数々の証言がある)
大事にしてるのはなにか?
統計的な頻度か?
本質的なことばか?
薙刀式は、「物語を書くための配列」としてつくられた。
ざっくりいえば僕が執筆に使いやすいことを目的とした。
その結果使いやすいのが出来ればいいよね、
と考えていた。(なのでお勧めしている)
その中核に、
これまでの議論であるところの、
認知と行為が対比的に刻まれていることに、
あらためて驚いた、
という話でした。
他にこんな配列ねえよな。
実に興味深い。
2024年02月11日
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