2024年04月09日

人生のドラマはドラマチックであることはめったにない

映画やドラマで見たことのある、
劇的な瞬間。

それは、現実の人生で体験してみると、
そんなに劇的なものでもなくて、
案外あっさりしているものだ。


受験の合格。
大学浪人。
上京。
就職活動。
引っ越し。
恋。友情。
友人の結婚式。
誰か大切な人の葬式。
自身の結婚。
親になること。

他にもいろいろあるだろう。
でもこういう人生の節目のイベントって、
映画やドラマで見るよりも、
わりとあっさりしているものだ。

映画やドラマで起こっている、
「こういうものだろう」を期待していても、
そんなにはならないことがとても多い。

多くの童貞が物語で幻想を持っている、
セックスというものが、
現実で打ち砕かれることに、とても似ている。

「ああ、まあこんなもんか」と、
物語的な幻想を取っ払ってからが、
実は現実の人生のはじまりなのだが、
なかなか人は物語的な劇的なものから、
逃れられない。
期待してしまうわけ。

逆に、
物語というものは、
「物語的な期待」を物語の中で叶えるためにある。
(小泉論法)
物語の中では、
童貞喪失は、劇的なものであるべきなのだ。

友人と女を取り合ったら、
ドラマチックに殴り合うべきで、
彼女との初セックスは、最高にロマンチックであるべきなのだ。

つまり、その「物語的なエッセンス」とは、
「演出」であるわけ。

物語とは、現実を演出的にドラマチックに変形したもの、
という言い方も出来るのではないだろうか。

そして、人生の節目のような、
誰にでもあるイベントをドラマチックにするだけでなくて、
誰にもない新しい事件と解決の筋を、
ドラマチックにすることも、
物語の役目であるわけだね。

つまり、物語とは、
なんでもかんでもドラマチックに仕立て上げたもので、
それを観客はつねに期待しているということだ。


「まあセックスなんてこんなものだよ」
という結論を期待して物語を見る人はいない。
「セックスとはなんて甘美で人類の夢に満ちた、
素晴らしいものだろう!」
という答えを最初から期待しているんだね。

だから、現実を知っている人と、
知らない童貞では、
また物語への期待が異なる。
どちらにもリアリティ溢れる現実を突きつけたうえで、
物語なりのドラマチックな演出に導き、
うっとりさせるべきなのだ。

じゃあ、ドラマチックなものとは、
嘘なのだろうか?
完全なる嘘や願望ともいえるし、
「日常に非日常のドラマがあったらいいのに」
と思う人たちを非日常に呼び込む、
手段であるともいえる。

人は、日常とはまったく別のものを見ると、
日常に帰還することができる。
いったん頭がリセットされるのだろう。
その、まったく別のものを見せるのが、
物語だ。

一種の夢ともいえるし、
ひとときの逃避ともいえる。
だけど、別世界であればあるほど、
日常に帰還しやすくなる。
旅して帰ってきたら「うちが一番いいわあ」
ということなのだ。
じゃあ最初から家にいろ、
というのは野暮で、
「外に出ないと内の価値を確認できない」
という癖が、人類にはあるのではないか。

つまり、物語とは現実の相対化の道具である。
だから、相対化するために、
(現実とは真反対の)ドラマチックであるべきなのだ。

アドレナリンが出て、
エンドルフィンが出るような、
多幸感溢れるものになるべきなんだよね。
posted by おおおかとしひこ at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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