映画やドラマで見たことのある、
劇的な瞬間。
それは、現実の人生で体験してみると、
そんなに劇的なものでもなくて、
案外あっさりしているものだ。
受験の合格。
大学浪人。
上京。
就職活動。
引っ越し。
恋。友情。
友人の結婚式。
誰か大切な人の葬式。
自身の結婚。
親になること。
他にもいろいろあるだろう。
でもこういう人生の節目のイベントって、
映画やドラマで見るよりも、
わりとあっさりしているものだ。
映画やドラマで起こっている、
「こういうものだろう」を期待していても、
そんなにはならないことがとても多い。
多くの童貞が物語で幻想を持っている、
セックスというものが、
現実で打ち砕かれることに、とても似ている。
「ああ、まあこんなもんか」と、
物語的な幻想を取っ払ってからが、
実は現実の人生のはじまりなのだが、
なかなか人は物語的な劇的なものから、
逃れられない。
期待してしまうわけ。
逆に、
物語というものは、
「物語的な期待」を物語の中で叶えるためにある。
(小泉論法)
物語の中では、
童貞喪失は、劇的なものであるべきなのだ。
友人と女を取り合ったら、
ドラマチックに殴り合うべきで、
彼女との初セックスは、最高にロマンチックであるべきなのだ。
つまり、その「物語的なエッセンス」とは、
「演出」であるわけ。
物語とは、現実を演出的にドラマチックに変形したもの、
という言い方も出来るのではないだろうか。
そして、人生の節目のような、
誰にでもあるイベントをドラマチックにするだけでなくて、
誰にもない新しい事件と解決の筋を、
ドラマチックにすることも、
物語の役目であるわけだね。
つまり、物語とは、
なんでもかんでもドラマチックに仕立て上げたもので、
それを観客はつねに期待しているということだ。
「まあセックスなんてこんなものだよ」
という結論を期待して物語を見る人はいない。
「セックスとはなんて甘美で人類の夢に満ちた、
素晴らしいものだろう!」
という答えを最初から期待しているんだね。
だから、現実を知っている人と、
知らない童貞では、
また物語への期待が異なる。
どちらにもリアリティ溢れる現実を突きつけたうえで、
物語なりのドラマチックな演出に導き、
うっとりさせるべきなのだ。
じゃあ、ドラマチックなものとは、
嘘なのだろうか?
完全なる嘘や願望ともいえるし、
「日常に非日常のドラマがあったらいいのに」
と思う人たちを非日常に呼び込む、
手段であるともいえる。
人は、日常とはまったく別のものを見ると、
日常に帰還することができる。
いったん頭がリセットされるのだろう。
その、まったく別のものを見せるのが、
物語だ。
一種の夢ともいえるし、
ひとときの逃避ともいえる。
だけど、別世界であればあるほど、
日常に帰還しやすくなる。
旅して帰ってきたら「うちが一番いいわあ」
ということなのだ。
じゃあ最初から家にいろ、
というのは野暮で、
「外に出ないと内の価値を確認できない」
という癖が、人類にはあるのではないか。
つまり、物語とは現実の相対化の道具である。
だから、相対化するために、
(現実とは真反対の)ドラマチックであるべきなのだ。
アドレナリンが出て、
エンドルフィンが出るような、
多幸感溢れるものになるべきなんだよね。
2024年04月09日
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