2024年02月16日

押井の構成、伊藤のセリフ

という関係だったのかー。
僕は逆だと思ってたよ。

押井守監督と脚本家伊藤和典のコンビは、
うる星やつら、パトレイバー、紅い眼鏡、アヴァロンなど、
数々の傑作を産んできた。

その関係性のインタビュー。
https://x.com/Ito_Kazunori/status/1758164698221150704?s=20


僕は脚本はセリフよりも構成だと考えている。
最悪セリフなんて役者のアドリブでいい
(アニメは絵を先につくるから、
そうはいかないだろうが)、
動機と行動がわかる簡潔なセリフになってればよい、
とすら考えている。

うまく短くする手腕は実は脚本家にしかないから、
役者のアドリブなんて冗長で、
編集で切るしかないんだけどね。

だから、
うまくセリフを書くのは実は難しい。
セリフは生き物でもある。
役者にアドリブをさせてしまうような脚本は、
そもそも「人間として自然な会話」になってないから、
役者の肉体的生理が反発してるわけ。
(非人間的なセリフを求めている、
たとえばこの人物は実は機械だったとあとでわかるなどは、
わざとやらなければならないが)

だからセリフを書ける脚本家は、
それだけで重宝されることがある。

だけど、セリフは脚本家の本質ではない。
あくまでガワだ。
化粧が上手い女なのだ。
土台から美人かどうかが、構成である。


そして、長年この業界にいると、
「構成を読める/再構築できる」人は、
数%程度しかいないことに気づく。

たぶん文句をやいやい言う人は、
それをそうしたら構成が歪むことに気づいていない。
「全体に影響しますね」とびびらせると、
「じゃあ影響しない範囲で出来るだけ」と、
場面しか見てない我儘だと認めたりする。

あれをこうしたら、これがこうなるね、
というのは全体の背骨が周囲にどう波及しているか、
分かってない人でないとわからない。


その、構成を分かってる方が押井だったのが、
とても意外だなあと思った。
そういうのは脚本家がやるものだという先入観があったので。

僕は押井守作品(80〜90年代。攻殻以降はあんまり)
が大好きで、生涯のベストに「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」
を挙げてるくらいなのだが、
何が好きかというと、
世界観や死生観もそうなんだけど、
最も好きな要素は構成力だったのかもなー、
などと再発見してしまった。
(僕がループモノに出会った最初の作品かもな。
そのループ性が、「文化祭前一週間」の、
あの雰囲気を永遠に味わいたい、というのが最高なのだ)


このTwitterは、
原作の脚本化にどう対峙するか、
という文脈でのポストだけど、
そうそう、
原作の構造をどうローカライズするかは、
構造を分かってないとできないよね、
という話だ。

ラーメンを取り分けて、ミニラーメンを作ることを考えればわかる。
麺とスープと具のバランスを、
ラーメン通りにするのか、
もう少しデフォルメして強調するか、
という問題がそこにあるからね。
チャーシューが一枚しかない場合、
そのチャーシューを切って小さくするか、
一枚まんま持ってくるか、
ネギの量は、などは、
全体のバランスに長けていないと判断できない。


脚本だけやってても、
映画だけ見てても、
その構成力や分析力、再構築力は、
身につかない可能性がある。

僕は映画を見る時は常に分解して再構築する。
それが最善手であれば絶賛するし、
再構築の余地があれば批判する。
前者がRRRで、後者がシンゴジラだ。

そういう風に、分析的に、再構築的に、
映画を見るのは、映画だけ見てても身につかないかもしれない。

本を読め、
しかも評論を、
あるいはもっと雑多に雑誌からインターネットまで、
というのは、構成力、再構築力をつける上で、
クロストレーニング的効果をもたらすだろうね。



ということで、晩年?の押井はあんまり好きじゃない。
攻殻以降は、理屈が勝って、
会話が死んでる気がする。
中身とガワのバランスが、中身寄りになってると思う。
たぶん押井のリアル話は、
構成は面白いんだけど、
人間としての機微に欠けてるんだろうな。
その欠損を埋めてバランサーになるのが、
プロデューサーの仕事なのだが、
そこが機能してないから、押井をプロデュースし切れてないのだろう。
posted by おおおかとしひこ at 05:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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