思いついたエピソードを羅列して、
最終的に解決につながればそれでいいか。
僕はだめだと思う。
「その結論への必然性」を考えるべきだと。
問題がある。それを解決する。
その一連のものが映画である。
そこに面白みがあり、
エンターテイメントがあることが求められる。
だけどそれでいいかな?
消費される何かならば、
それを消費しておもしろかったと言えるだろう。
だけど多分、映画に求められているものは、
それ以上だ。
何かというと、テーマだろう。
あるテーマに収束して、
いいものを見たぞと思える何かなんだよね。
世界をよくするテーマでもいいし、
別に世界を悪くするテーマでもいいよ。
(大人には愚行権がある)
いずれにせよ、
結論へ向かって必然性があるように並んでいなければ、
「なんのためにその話をしたのか」がなくなると思う。
つまり、
「すべてのエピソードは、全部この結論を導くために、
有機的に組み合わさっていたのだ!」
がベストだと思うわけだ。
逆に、
ストーリーは、この意味において、
数学の証明と同じ構造をしているわけだ。
まさかストーリーと数学の証明が似ているとは、
理系でないと気付かないかもしれないね。
すべてのエピソードが、
結論を導出するために、
念入りに並べられていなければならないわけだ。
仮定、反証、再仮定、反証、再々仮定、検証、
反証潰し、結論の範囲の議論などを経て、
最終的に結論づけられること。
そんな感じの、実験結果のように、
ストーリーは並んでいるべきだ、
ということだ。
それってなんのためにあるの?
作者はなにが言いたかったんだ?
それの意味ってなんだったの?
なんて感想が出るストーリーはつまらない。
それって、
それらの部分が全体に寄与していない、
あるいは、その部分の全体における役割が意図不明である、
つまり、
証明の一部としての機能になっていない、
ということを指摘されているということだね。
全てのエピソードは論理的な関係を持つ。
これはこのための前振りや繋ぎであったと。
それが分ったときに、
「なるほど」という納得がやって来る。
そして、それに感情移入が伴えば、
テーマは深い感動を得るに違いない。
「ただ描きたかったから」
「ただ面白いと思ったから」
「ただやりたかっただけ」は、
映画の中にも、数学の証明にもない。
それは余計なパーツであり、ノイズである。
「単発ではとてもいいエピソードなのだが、
全体から見たらよくわからない役割の場面」は、
ジャンクパーツである。
捨てたまえ。
(捨てがたいものだったなー、と思えば、
リライト時に復活させよ。
多少無駄な時間帯だとしても、
それがあることでとてもよくなるなら、
結論のための最短手順ではなくなるが、受け入れられるだろうね。
その見極めが出来るか?
ということでもある)
2024年04月14日
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