2024年04月14日

話の為の話になってはいけない

思いついたエピソードを羅列して、
最終的に解決につながればそれでいいか。
僕はだめだと思う。

「その結論への必然性」を考えるべきだと。


問題がある。それを解決する。
その一連のものが映画である。
そこに面白みがあり、
エンターテイメントがあることが求められる。

だけどそれでいいかな?
消費される何かならば、
それを消費しておもしろかったと言えるだろう。
だけど多分、映画に求められているものは、
それ以上だ。

何かというと、テーマだろう。
あるテーマに収束して、
いいものを見たぞと思える何かなんだよね。

世界をよくするテーマでもいいし、
別に世界を悪くするテーマでもいいよ。
(大人には愚行権がある)
いずれにせよ、
結論へ向かって必然性があるように並んでいなければ、
「なんのためにその話をしたのか」がなくなると思う。

つまり、
「すべてのエピソードは、全部この結論を導くために、
有機的に組み合わさっていたのだ!」
がベストだと思うわけだ。

逆に、
ストーリーは、この意味において、
数学の証明と同じ構造をしているわけだ。
まさかストーリーと数学の証明が似ているとは、
理系でないと気付かないかもしれないね。
すべてのエピソードが、
結論を導出するために、
念入りに並べられていなければならないわけだ。

仮定、反証、再仮定、反証、再々仮定、検証、
反証潰し、結論の範囲の議論などを経て、
最終的に結論づけられること。
そんな感じの、実験結果のように、
ストーリーは並んでいるべきだ、
ということだ。

それってなんのためにあるの?
作者はなにが言いたかったんだ?
それの意味ってなんだったの?
なんて感想が出るストーリーはつまらない。

それって、
それらの部分が全体に寄与していない、
あるいは、その部分の全体における役割が意図不明である、
つまり、
証明の一部としての機能になっていない、
ということを指摘されているということだね。


全てのエピソードは論理的な関係を持つ。
これはこのための前振りや繋ぎであったと。
それが分ったときに、
「なるほど」という納得がやって来る。
そして、それに感情移入が伴えば、
テーマは深い感動を得るに違いない。


「ただ描きたかったから」
「ただ面白いと思ったから」
「ただやりたかっただけ」は、
映画の中にも、数学の証明にもない。
それは余計なパーツであり、ノイズである。

「単発ではとてもいいエピソードなのだが、
全体から見たらよくわからない役割の場面」は、
ジャンクパーツである。
捨てたまえ。

(捨てがたいものだったなー、と思えば、
リライト時に復活させよ。
多少無駄な時間帯だとしても、
それがあることでとてもよくなるなら、
結論のための最短手順ではなくなるが、受け入れられるだろうね。
その見極めが出来るか?
ということでもある)
posted by おおおかとしひこ at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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