2024年04月15日

悪意があるのか、ないのか

悪意があるのが悪役とは限らない。
立場場敵対することにもなるから、
悪意がなくても悪役になることはある。


敵対者は誰か?
どの人と一番大きなコンフリクトがあり、
どの人と対決することになるのか?

たとえば心の中の葛藤がテーマだとしても、
それは外に出すのが三人称の物語だ。

たとえば「この恐怖心を越えればゴール」、
というような一人称の中のテーマであっても、
「この人に勝つ」などの、
具体的な人を超える行為に置き換えると、
三人称のクライマックスになる。
その具体的な人を悪役という。

別に悪意があってもなくてもそうなる。
だから悪意ありなしとは関係ない名称で、
敵対者(antagonist)というのだね。

もちろん、悪意がたっぷりあっても構わない。
人を押しのけ、追い落とそうというやつでもいいし、
普段からろくなことをしてなくて、
今度も主人公をひどい目に合わせてやる、
と狙っているやつでもいい。

悪意らしい悪意がなくても、
結果的に悪意的になることもよくある。
無知ゆえに、結果的に悪意があることと同じになることは、
現実でもよくある。
それを知って取り返しがつけばいいんだけど、
たいていは取り返しがつかないところに事態が進んでいるので、
その敵対者を追い落とすしか、
手段がなくなっていることが多いわけだ。
(物語の中では)


悪意があったほうが、盛り上がる。
なぜなら、
その悪を倒すとスカッとするからだ。

無知ゆえに敵対者になってしまった人を倒しても、
後味はあんまりよくないよね。
だから、悪役は悪意たっぷりのほうが、
遠慮なく戦えるわけだ。

敵の中にも人格者はいるだろう。
だけど、
結果的に倒すやつは、
敵陣営の中でも手を焼いているひどいやつだ。
少なくとも観客は憎むことになるだろう。
だからスカッとするんだね。


そういう構造をつくれないか考えることだ。
敵対者に矛先が向かえば向かうほど、
それを倒す主人公が良く見えるだろう。

コントラストは濃い方がよく見える。
posted by おおおかとしひこ at 00:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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