臭いものに蓋というか、羹に懲りて膾を吹くというべきか。
「セクシー田中さん」のプロデューサー三上絵里子の、
次クールの漫画原作実写化「たーたん」が、
制作中止になったらしい。
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/25914920/
スタッフを集めて中止を告げる時に、
三上は姿を現さなかったらしい。
すでに随分準備は進んでて、
キャンセル費も発生してるだろう。
その場に来ないプロデューサーから、
仕事をもらってる自分が嫌になる出来事だ。
たぶんこのスタッフは二度と三上とやるまい。
俺ならやらない。人としてね。
この記事中で気になったのは、
ドラマというものの作り方だ。
まず枠ありきだろう。
○月○日から三ヶ月間、
○曜日○時からの枠が空く。
それは年間スポンサーがすでに契約していて、
新しく加わったり減ることはない。
スポンサーたちから見たら、
我々の提供枠に、次どんなコンテンツを?
という見え方だろう。
その枠内で何をするか?が企画だ。
オリジナル脚本を書くには開発費がかかる。
だから、○○原作を使って○○主演でいきます、
だと枠の会議を通りやすい。
なんにせよ視聴率は内容じゃなくて芸能人で決まるので、
それを何人確保できるかが最初になる。
付き合いのある事務所から順番に出番をあたる。
なんなら、
○○事務所の○○主演ありきで、
企画を立てることもあろう。
もちろん、○○を使うなら同じ事務所の○○もバーターで出してとか、
○○と○○は共演NGなどもある。
スケジュールもあろう。
人気芸能人は争奪戦だ。
何年先まで埋まってることはざらだ。
というわけで、
内容ありきの企画ではなく、
座組みありきの企画になる。
この一座をあつめたので、
脚本家、なんか書いてと。
で、オリジナルをこんな状態から立ち上げていては遅いので、
原作をこの座組みに当てはめて、
となるに違いない。
(ドラマ風魔のように、最初からオーディションありきではない)
この作り方をする限り、
「この原作をいかに実写として忠実にやるか?」
から始められないのは、
火を見るより明らかだ。
脚本家はあとからのアサインで、
入った時点である程度レールが引かれてて、
この芸能人の当て書きでよろしく、
なんてこともあるだろう。
この「たーたん」の例でも、
ムロツヨシと原作のアサインが最初で、
キャスティングをプロデューサーが決め、
そのあとで脚本家が呼ばれているような、
記事の書き方だと思う。
原作者とのやり取りがどれだけあったかは知るよしもないが、
現場スタッフたちはさらに後からのアサインだろう。
「チームに入った時はだいたい決まってた」
という監督の話は業界でもよく聞く。
監督のやることは単なるオペレーターだと。
何がわるいんだろう。
少なくとも、
「この原作をよくぞやったというような、
すごい実写にするぞ!
そのために0ベースから積み上げるぞ!」
ではないことが、
記事の端々から読み取れる。
制作の都合で動き出した列車は止められないから、
突き進むか事故るしかないという感じ。
今回は勇気を出してブレーキを踏んだ。
だけど言い出しっぺではない人が、
ブレーキコールをしている。
その歯にものが挟まった感じはなんなんだ。
男女差別的な言葉だが、男らしくないな。
総責任者三上はとりあえず世間の前に出てこい。
世間に晒されない限り、
この魔女裁判は終わるまい。
2024年02月21日
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