2024年04月19日

詩とは何か

大げさなテーマだけど、考えてみたい。
なぜなら、映画とは文学であり、
詩的なことを描くからだ。


僕の考えを述べる。
「大自然に人間を見出すこと」と定義してみたい。


人間でないものに人間を見出し、
投影することは、
人間の性質の一つではないかと思う。

たとえば、
「太陽が月を追いかけている」
という状況を見たら、
「太陽は月を好きだから追いかけるのだ」
というように、
人間のひとつの性質を見出するることがある。

太陽と月にもちろんそんな関係はない。
だが、
人間側が、人間を投影してみてしまう、
ということである。


これは詩的なことの定義の半分である。
形式的な部分だ。
残り半分の、内容的な部分を説明する。

たとえば、
誰か好きな人がいるのだが、
振り向いてくれない、
という状況があったときに、
「太陽が月を追いかけている」を見ると、
「好きだからだなあ」と思う。
それは、「自分の状況を投影している」ということだ。
太陽と月を見ながら、
「自分と好きな人の関係」を重ね合わせてみているのだ。
これは、人間特有の現象なのではないか、
と思うわけだ。


先日夜明けで撮影をしたのだが、
水平線にまだ沈み切っていない満月が見えた。
昔のチャゲアスの「モーニングムーン」を思い出して、
ついつい口ずさんでしまった。

「見上げたらモーニングムーン
夜に紛れて
朝焼けのベランダで戸惑っている」
というフレーズだ。

このとき、
モーニングムーンは別に戸惑っていない。
ニュートンの法則にしたがって運動しているだけだ。
それに「戸惑う」という心境を感じるのは、
「見ている人」の側の感情である。
つまり、
見ている人は人生のゆく末に戸惑っていて、
それを月に投影しているのだ。

これを、詩と定義できないかなあ、
と思ったわけ。

つまり、
人間の感情のない自然に、
人間側が勝手に人間的なものを見出して、
投影してしまうこと、
のようにだ。


投影対象は、自然と定義するのが詩だとしよう。
ロボットや無生物や社会のような、
人工物にも投影することがあるが、
伝統的な詩は自然が対象のような気がする。


僕の好きな「名残り雪」も、
名残り惜しんでいるのは雪ではなく、
「僕」だ。
僕が名残り惜しいのだが、
それをストレートに言えない
(恥ずかしい、もう別れるのにそのことを言ってもしょうがない、
具体的な言葉として言う言語化能力がない)
から、
「これは名残り雪である」
という風に、
自然物に投影している、
と解説できるのでは、というのが今回の主題である。


ざっくり言えば、
自然の擬人化とでもいえるだろうか。
「太陽が泣いている」という表現では、
泣いているのは自分だったりするね。
太陽そのものが泣いているわけではない。

もちろん、太陽がせっかくくれた恵みを無駄にしてしまい、
おてんとさんがバカバカしくて泣いてるわ、
などのようにも使うかもしれない。
(まあその時だって泣いているのは俺だぜ、
というふうになるだろうが)


こんな風にして、
詩とは何か、
と定義できるかもしれないなあ、
と思ったので、
メモ代わりに書いてみた。
あってる、あってない、ということはあるだろうが、
詩とは何かをこのように簡潔に定義した例は見たことがなかったので、
とりあえず書いてみた次第。


詩的とはなんぞや。
形式的には、
モチーフと気持ちの両方のペアのことを言う。
そしてモチーフは自然のものであり、
気持ちは自分の感情から来る何かだ。
posted by おおおかとしひこ at 07:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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