ある象徴的なものに、自分を投影する。
それにそんな意味はないのに、
勝手に自分を投影して、
意味を読み取ってしまうことがある。
これは誤った投影なのか、
投影というのは過ちを許容するのか、
なんともいえないところ。
次の例で議論しよう。
Twitterから。
> 猫に旦那の膝枕自慢されてるんだけど
https://x.com/heart_and_momo/status/1765189041442730252?s=20
嫁目線で撮った写真で、
コタツに入ってる旦那の膝の上の猫が、
カメラ目線になっている写真だ。
僕は膝枕自慢なんて読み取らずに、
「そこが気持ちいいのか」しか読み取らなかったので、
この嫉妬の感情を投影しなかった。
その差異について考えたいわけだ。
僕には旦那がいないし、
その旦那に膝枕で甘える発想もないし、
それを自分の特権だとして、
誰か他の女に取られたくない発想もないし、
猫にそれを取られた、キー!もないし、
猫ちゃんとそんなことやってる私かわいいでしょもない。
あまりにもないことだらけで、
投影のしようがないものを、見て驚いたんだよね。
もちろん、このような投影があることはわかる。
だが自分の投影とまるで分離した投影を見て、
投影というもののおもしろさ、おそろしさを議論したいなと思ったわけ。
つまり、
投影は主観的現象であり、
誰もが感じる客観的現象ではない、
ということである。
投影は、自分の体験から来るものであり、
「自分に寄せて考える」現象だ。
だから自分の体験に根ざす深い感情であり、
体験にないことは、逆に投影しない。
あるいは、深すぎるゆえに、感情を揺さぶられ、
自分では制御できない感情が迸ることもある。
たとえばペットを飼い、その死を体験した人は、
ドラマの中でペットが死ぬ場面で、
号泣から逃れられないだろう。
その物語が表現している悲しみよりも、
深い悲しみに囚われてしまい、
その後の展開は頭に入らないかもしれない。
それくらい、自動的な感情ということだ。
主観的だから、
「私は今投影という現象に囚われている」
と観察することすら困難だろう。
ただその感情に揺さぶられているわけだ。
津波を経験した人たちに配慮して、
城を水責めする「のぼうの城」が公開延期になったことがある。
人工洪水であって津波ではないのだが、
津波での悲劇を投影してしまう人が続出すると判断して、
水責めシーンをカットしてまで公開延期した事件があった。
この判断が正しかったかはわからない。
なぜなら投影は主観的現象であり、
他の人が測り得ないものだからだ。
(事故を避けようとした事勿れ主義としか見えない。
それがどれほどトラウマを揺さぶるレベルなのか、
体験者を数人招いて聞き取りをやるくらいは、
丁寧にできるとは思うがね)
糞フェミニズムの人たちが
(正しいフェミニズムの人たちに対して、
何でもかんでもクレームをつける人たちを、
糞フェミニズムと呼ぼう)、
性的広告であると色んな広告を取り下げさせているが、
それも主観的投影と、客観表現を区別していない、
傷ついた者勝ちの論理に乗っかってるよね。
主観現象は止められないし、客観性がない。
修正できないし、深く心を揺さぶる。
投影は、このことに陥りがち、
ということを覚えておくべきだ。
能は、その投影現象を用いた、最古の芸術のひとつだ。
白い能面はただの無表情なのに、
ストーリーの進行によって、
それがいく通りもの表情に見えてくる。
それは、投影なんだよね。
たとえ無表情でも編集の具合によっては、
それに投影できるという現代のモンタージュ理論を、
観阿弥世阿弥は、室町時代にすでに完成させていたわけさ。
モンタージュ理論や能の投影は、
ストーリーによって誘導していくのであった。
しかしこの写真では、
各自の経験の差によって、
一枚の写真から連想されることや、
どこに自分がいるかは、異なることを示唆している。
(僕は猫の立場で写真を見ていたが、
この投稿者は猫に旦那を取られた立場で見ている)
これが、
写真のおもしろさであり、おそろしさでもあるわけ。
映像というのは総合芸術だから、
ストーリーによって、この投影を、
一つの方向に制御していこうという分野である。
人によってバラバラな投影を、
一つの解釈に誘導していく。
それは、文脈と感情移入によって、である。
感情移入については過去記事に詳しいが、
主観的投影による共感ではなく、
客観的感情による、
「私にはその経験はないが、
私がその立場に置かれたら、
きっとそのように思うだろう」
を通じて、
客観的考察が、いつの間にか主観的感情にうつりかわり、
人々が同じ投影をする現象、
とでも分析できようか。
つまり、ある絵に対して、
その文脈を見ている人ならば、
同じ意味を投影できてなければ、
観客の感情のコントロールに失敗している、
ということなのだ。
もっとも、昨今は切り取りがはげしく、
悪意すらあることもある。
「その文脈ではその投影はないのに、
切り取ったことで別の主観的投影がおこる」
という現象だ。
これは文脈とコントロールのあるムービーから、
一枚絵を切り取ったことで生じる現象だ。
写真には文脈がないから、
投影はいくらでも主観的に可能になるわけだね。
意図していない投影に対しては、
前後を見てから言えカス、でいいはずなのだが、
悪質クレーマーに対して折れる企業が増えたので、
成功体験を彼らに積ませてしまった。
昨今は、「それはあまりにも誤読である」
と、クレームをはねるケースが増えてきて、
ようやくか、とホッとしている昨今だ。
何が言いたいかというと、
投影は強力な主観現象である、
ということ。
我々が意図して最終的に刷り込んでゆく投影=感情移入は、
とても強力な作用を及ぼす武器なのだ。
それを使いこなしてなくて、
何がストーリーテラーだろう。
投影のことをよく知ろう。
そして使いこなすのだ。
2024年03月12日
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