を創作しよう。
他人のものを観察してもよいし、
理想のものをもってきてもよい。
僕はつねに、「フィクションの主人公を自分にしないこと」と警告している。
その主人公のスペックが作者どまりになってしまって、
主人公の可能性が、上限作者でおしまいになるからだ。
主人公は、作者にないスペックや、スキルや、
コネクションや、性格や、もって生まれたものや、
違うものを持っているべきだ。
そしてそれが成功の原因になれば、
「作者の限界」をそのキャラが越えて、
成功できるはずだ。
作者と同じスペックにしている限り、
作者と同じ成功しかできない。
作者がたいしたことのない人間ならば、
余計そのレベルしか成功が描けない。
それ以上の成功が必要だ。
そのへんにない、とんでもない成功談がフィクションだからだ。
万が一、作者がイーロンマスクのような超人だったら、
まあそのスペックで成功する主人公を描けばいい。
でも作者本人のほうがおもしろくなるから、
そのフィクションに価値が出るとは思えない。
いずれのケースにせよ、
作者=主人公にしてしまうと、
作者の成功>フィクションの成功になってしまう。
作者の成功<フィクションの成功になると、
リアリティがなく嘘くさいということになってしまう。
作者のスペックで、作者以上の成功を夢見ている、
現実味のない願望を描くだけになるだろう。
さて、
じゃあ、主人公は、おそらく作者よりスペックやスキルが「つよい」のである。
じゃあそれをどのように設定すればいいか。
「具体的でなく、抽象的にせよ」と、
忠告しておこうか。
たとえば、「100メートルを5秒で走る」
などのような具体的なスキルにせず、
「コツコツと努力できる」のようにする。
100メートル5秒のスキルは、
その結果であるようにするわけ。
結果のスキルの「原因」をつくれ、
ということである。
ゴジラを倒したオキシジェンデストロイヤーの発明者、
芹沢博士を考えよう。
具体的なスキル、
「オキシジェンデストロイヤーを発明できる」とか、
「超科学者である」とか、
「天才科学者である」とかにしない、
ということだ。
それは結果に過ぎない。
その原因であるもので、あなたにないものを設定するわけだ。
たとえば、
「好奇心がずば抜けている」とか、
「世界を構造化してしまうのが好き」とか、
「生き物がなぜ死ぬのかに興味がある」とか、
オキシジェンデストロイヤーという結果ではなく、
それを発明できた理由、みたいな原因に、
あなたにない性格やスキルを放り込んでおくのだ。
仮に「好奇心がずば抜けている」ならば、
なぜ女の髪は長いのか観察したり、
人の吸っている煙草を拾って統計を取っている、
などのような、なんにでも好奇心を持っている変人に設定しておく。
ゴジラが現れて、
弱点の何かを晒したとき、
「なぜだろう?」と観察させればよいわけ。
そのときに、ゴジラの細胞が、
酸素系の洗剤に弱いことを突き止めて、
それを応用したオキシジェンデストロイヤーを発明させればよいわけだ。
そうすれば、
あなたにない性格やスキルを持った人が、
ある危機に直面したとき、
とても自然に解決まで(苦労しながらも)行ける、
ということになるわけ。
あなたはオキシジェンデストロイヤーを発明できないし、
科学者になるだけのスキルも持っていない。
だから、あなたと同じ人間が主人公だったら、
ゴジラを倒す話は作れないわけ。
だが、あなたにない能力を持っている人間が、
ゴジラを倒す話はつくれるはずだ。
それに必要な能力を見積もり、
それが最初からあるか、
それに近いところまでは持っているがまだないものを、
どうにかして得る話をつくればいいからだ。
すべては逆算である、というのは、こういうこともいうわけ。
で、その時に、
ただ「オキシジェンデストロイヤーを発明できるだけの天才的頭脳を持っている」だと、
感情移入できないわけよ。
「好奇心がずば抜けている」ならば、
身近に感じるわけ。
なぜなら、「好奇心」そのものはみんな持っているからだ。
具体的でなく抽象的にする、というテクニックは、
誰もがわかるものをもって来る、
ということをいっている。
みんなが分る感覚を、さらに延長していくのが、
「分る」という感覚になるわけだね。
俺たちに大谷の凄さは全然分らないが、
高身長の美人と結婚すると、
「運動部っぽいんだなあ」と、理解が進むよね。
そういう感じ。
超絶能力は理解できないが、
人は自分でわかる範囲で理解しようとする。
そのときに、オキシジェンデストロイヤーとか、
二刀流とかではなくて、
好奇心とか、運動部とかの、
俺たちよりもっとすごいやつ、
という風にするだけで、理解しやすく、親しみやすい、
ということになる。
それはつまり、
訳の分からないものには感情移入できないが、
訳の分かるものには感情移入できる、
ということである。
そのように誘導するのが物語を書くということだ。
にも拘わらず、
下手糞な人は、
自分と等身大を描いて、
全然解決できない問題を抱えて、
自分が解決するよりも矮小な問題しか解決できないか、
リアリティのない解決話(オレツエー)を書いて、
悦に入るしかできないわけ。
自分と似たような抽象的な能力しかないくせに、
具体的な能力だけは秀でている、
たとえば「100人切りが出来る」とかを付与すると、
おかしくなるわけだよ。
それが出来るだけの基盤、原因がないくせに、
結果だけがあるからね。
リアリティがないということは、
それが線になっていないということだ。
点しかない、単なるハッタリの角になっているだけなんだよな。
具体でなく、抽象にすることで、
「なぜその具体的な結果を出せたのか」を描くことが可能になる。
その抽象的な理由があったから、となるからだ。
その、自分にはない、何かを付与すれば、
それだけで、
「自分ではない主人公」になる。
下手糞な人は、
自分を主人公にしてしまって、自爆する。
自分じゃない人間を主人公にする、
となっても、
外面は他人だが、内面は自分そのもの
(ないし願望)にしてしまうことが多い。
それは自分から全然離れていない。
仮に外面が自分そのものだとしても、
まったく内面が違う人間を考えてみよう。
それは違う人間だよね。
そういう人を、創作するんだよ。
ガワを取り替えただけで、
別人などと判断するべきではない。
中身が違うことが、他人ということだ。
そういう人間を主人公にするのだ。
難しい? 難しいよ。
だから、それがうまく行っている話はめちゃんこ面白いんだよね。
2024年04月24日
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