薙刀式でいうところの、
繋ぎの言葉や語尾部分は、
人差し指、中指に集中している。
列挙してみる。
左中指
と て で は に を には とは では とに
左人差し指
が か 、 ね かね しか しかし
左人差し指中指の組み合わせ
って っと して こと は、 を、 まで までに
右人差し指
の な 。 た く や さ なあ だな
右中指
も る よ よい いる
右人差し指中指の組み合わせ
ある ない
もの ものの のも のよ のや のだ なのだ なのよ
もだ ものだ ものよ いた だな よく やる よる
よなあ
左右の組み合わせ
ので なので なのに である ではない だが だがしかし
がある がない にも のに のは だった した でも
まる まま っている なっている っていた なっていた
いたのだ なっていたのだ なっていたのである
なのよね かもね かね だよね だものね
おもに による によると によい によく
なっていく やっていく していく している していた
したり ざっと あり ありがたい したい したく
まい あるまい してしまいまして やってしまった
あの その この どの どこ ここ そこ あそこ
そもそも
こうしたものは、
「単語系タイピングゲームには出ないが、
実戦文章で頻出するもの」だ。
繋ぎの助詞部分、修飾語句、語尾部分として、
日本語の根幹の構造をなす部分だと思う。
これらの言葉をなんと定義するべきか、
日本語文法にはそれを指し示す枠組みがないため、
僕は「繋ぎの語」などと呼んでいる。
日本語というのは、
名詞や形容詞や動詞を、
これらの繋ぎの語でつないでいけば、
大体文章になる、などと僕は考えている。
繋がれる言葉が「話題の語」で、
繋ぐ言葉が「繋ぎの語」という認識だ。
僕が単語系タイピングゲームに否定的なのは、
この、日本語の重要な性質であるところの、
繋ぎの語を無視しているからだ。
ゲルマン語は、語順によって意味が決まる、
格構造をもっている。
だから、単語をそのまま並べるだけで意味が発生する。
ゆえに、単語を練習するだけでタイピングゲームが成り立つ。
ところが日本語はそうではなく、
世界でも類を見ない膠着語なので、
単語をこうした繋ぎの語でくっつけて、
単語順ではなく、文のくっつき構造で意味をつくる言語だ。
ゲルマン語系の単語タイピングゲームを、
そのまま輸入したのは、
僕は間違いだと考える。
両者の言語に明るくない者が、
輸入して広まってしまったのだろう。
もしこれらをきちんとわかっていれば、
タイプウェルに、
「して」「ひろまってしまった」「のだろう。」
「もし」「これらを」「きちんと」
「わかっていれば、」「に、」
なんかも現れただろうね。
タイプウェルには、
「両者」「言語」「明るい」「者」
「輸入」「広まる」
などの、「話題の語」しか入ってないんよね。
日本語タイピングゲームを最初に作った人が、
英語タイピングゲームを真似た
(アルゴリズムを真似たのが正解かな)のは、
初期には間違ってなかったが、
両者の言語を比較して考えていなかったのであろう。
その、ゲームだけが残っている状態だろう。
(もちろん、文全体や文章全体を打つゲームもあるが、
主流ではない。ゲーム性が明らかになりにくいからだろう)
で、
話を元に戻すと、
薙刀式は、
こうした繋ぎの語、語尾部分の、
かなりの多くを、人差し指と中指でババっと潰せる。
これが薙刀式が、日本語を書くとはこのようなことである、
と考えていることの本質な気がしてきた。
僕は最初からこうしようとして薙刀式を作ったわけではない。
自分の無意識がこうしたいというのに従った感が強い。
だから、こうして、自分の「あるべき日本語と指の関係」を、
あらためて整理して発見することが稀によくある。
なんで薙刀式で文章を書くと書きやすいのか、
なぜqwertyは文章を書きにくいのかの答えは、
これだろうと思う。
2024年03月26日
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