2024年04月27日

主人公を好きになるのはどこか

ヒロインが、ではない。
観客が、だ。


主人公=作者だと、
ここは難しいと思う。
「俺なんかが人に好かれるわけがない」か、
「オレツエーこれはみんな好きになるうー」かの、
どちらかしかないからだ。

前者では好きになるポイントが存在せず、
後者では客観性のないものになる。
どちらにせよ、
観客が主人公を好きになることはなさそうだ。


観客は、どこかしらの段階で、
主人公を好きになる。

早い段階のほうがいい。
早い段階で好きになれば、
以後ずっと好きな時間が続くからね。
幸福な時間は長い方がいい。

とはいえ、
「キューン、スキー!」に簡単になるわけではない。
徐々に好きになっていくと思われる。

好きになる、という他者的な場合もあれば、
まるで自分のようだ、目が離せない、気になる、
という場合もあろう。

段階的、グラデーション的で構わない。
しかし主人公には、
最終的に好きになるだけの、
何かがあるということだ。

人がなぜ人を好きになるかは、
解明されていないので、
「こうすると好きになるぜ」と断言できるわけではない。

だが、脚本におけるそれは、
ビジュアルや雰囲気ではなく、
行動であることだけは断言できる。

そういう文脈でそういうことが出来る人、
そういうことが言える人、
尊敬できる人が、
好きになる要因だろう。


ブレイクシュナイダーのsave the cat理論では、
主人公は開始5分で猫を助けなければならない。
ほんとうに猫を助ける必要はないが、
猫を助けることと同等の、
行動で「この人は信用できるぞ」という場面を、
つくるべきだということ。

つまり開始5分以内に、
主人公を好きになる種を仕込むべき、
ということである。

もちろんガチ惚れ大好きな場面になればいいが、
そうはうまくいかないものだから、
なるべく「この人はいい人だ」「信用できる」を、
植え付けるべき、ということだ。



それを何回か追いかけているうちに、
主人公が見せる勇気とか、
主人公がする親切とか、
主人公なりの正義とかに、
みんな惚れ込んでいくのかもしれないね。

ただ性格がいいから好きとか、
面白い人だから好きだけでは限界がある。

行動で示して、それをきちんと成し得たときに、
人は主人公を好きになると思う。

それは、ラストの大成功まで待っていては遅い。
開始5分、10分、15分、30分、
前半戦のどこか、など、
ことあるごとに魅力が上がっていくべき、
ということでもある。

人はなかなか人を一発で好きになるわけじゃない。
徐々に、複合的に、総合的に、
好きになるものだ。
そしておそらく、
決定的な最後の一押しがあって、
決定的にその人のことを好きになると思う。

なぜ人は人を好きになるのか、
そのプロセスはどういうものか、
それがわかれば話は早いのだが、
まあざっくりはこういうことだ。

入口、徐々になんとなく、そして決定打。
それらが揃うといいと思う。



手前味噌だけど、
ドラマ版風魔の、小次郎は魅力的で、
みんなが好きになる主人公だ。
もともと石松的な面白い人が、
みんなに惚れられる場面は、
やはり風林火山をものにしようとする努力や、
「強い善人だってこと」と告白する場面で、
決定的になるはずだ。

原作版では、小次郎という人間を皆が好きになるわけではない。
車田漫画や少年漫画における主人公の魅力の無さについては、
監督メモに詳しいので繰り返さないが、
ドラマ版では、主人公をみんなが好きになるような、
ストーリーラインを創作したわけである。

だから壬生の命を取ることも、
武蔵を破ることも、
その結末を見届けたくなるわけだね。



どこで主人公を好きになるか?
それはある種の計算高い問題だ。

主人公=自分だと、
その客観性もないし、卑屈すぎるか尊大すぎるかになる。
主人公を自分にするなという戒めは、
その計算をさせるためでもある。
posted by おおおかとしひこ at 07:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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