音楽用語ではあるが、一般に使われる。
どこかでリズムやムードが変われば、
転調した、となる。
脚本ではその点をターニングポイントと呼ぶ。
音楽では明確な転調点というのはないが、
ストーリーではここ、という軸足がある。
ストーリーとは変化である。
ずっと同じ調子のものはない。
たとえば、
「俺は無敵で強すぎる」
を延々描くストーリーはない。
ラノベっぽいタイトルだが、
これはあとで議論しよう。
同じ調子、同じベクトルだけで、
ずっと同じことをしているストーリーはない。
仮にバトルものだとしても、
ピンチ、逆転、ピンチ、無双、
などのように、
転調が入るようになっている。
なぜなら、そうしないと飽きるからだ。
作者が観客になって、
「そろそろ飽きるから転調しようか」
と転調を入れるのだろうか。
おそらくそうだ。
それが敏感でないと、ずれたシナリオになるだろう。
とはいえ、
よくできたパートは夢中だからすぐ時が過ぎる。
転調しないと不安になるのは、
よくできてないパートかもしれないね。
よくできたシナリオとはつまり、
各パートに夢中になるように書かれていて、
転調点が鮮やかに決まり、
次のパートに興味がうつり、
そのパートに夢中になり…
がずっと続く、
という形になっているわけだ。
バトルものでいえば、
勝利1、敗北1、特訓、再戦、勝利2、敗北2、
みたいなパートをたとえばつなげることができる。
これらを「展開」と考えると良い。
つまり、
どのような転調したパートがつながるか、
を設計することがストーリー設計、
とくに中盤の構成、というわけだ。
それらはいろいろなバラエティであるべきで、
いろいろな色の感情を伴うだろう。
ヤッター、くそお、の2色だけでは飽きるだろう。
Bストーリー(ラブストーリーが多い)を入れて、
目先を変えるのは、転調のバリエーションを増やすためだ。
さて、
これはストーリーを中から見た構造論である。
これが、外から見ると違うように見える、
という話をする。
仮に転調が、ABCという3パートに分かれたとしよう。
実際にはABC…PQRくらいパートに分かれるだろうが、
話を簡単にするためにABCだとする。
「外から見る」とはどういうことか。
レンタルビデオ店を想像されたい。
作品がざーっと並んでいる光景で、
表紙ないし背表紙しかない状態だ。
このとき、「これはABCという転調の話です」
は、「ややこしくて認識できない」
ことを考える。
本来、
ストーリーがたくさん並んでいるのなら、
それぞれ、ABCと転調するストーリー、
DEFと転調するストーリー、
GHIと転調するストーリー…
のように認識されてしかるべきだ。
ところが人間の認識力というのは大したことがなく、
限界があるためこのようには認識できず、
作品たちを並べた時、
Aというストーリー、
Dというストーリー、
Iというストーリー…
などのようにしか認識できない。
なんならそれすらもできず、
(既に知ってる)Xが主演の話、
(既に知ってる)Yグループが出てる話…
などのように、
既存の何かに紐付けてしか分類できないわけ。
映画のポスターのブロッコリー化
(主演たちがただ並んで立ってたり、
ブロッコリーの房のように、
顔だけが丸のようにレイアウトされた、
キャスト一覧だけを示して、
ストーリー内容を示していないもの)は、
後者の認識力を利用した、
「レベルの低い観客にあわせたもの」である。
なぜそうなっていったかというと、
そもそも、AやDやIが飽和して、
強力なそれが作れなくなったからではないか、
などと僕は考えている。
いや待て、
そもそもストーリーとは転調の集合であった。
ABCがその本体なのに、
Aだけに切り取られるのは合点がいかぬ、
ということであろう。
だから、
「コンセプト」を立てるべきなのだ。
コンセプトとは、
僕は「その作品のアイデンティティになる、
外側から見たアイデア」だと考えている。
外側というのは、ネタバレしないで見せるもの、
くらいに思うといいだろう。
僕はまだ見てないが、
「オッペンハイマー」でいえば、
「原爆を作った男の話」くらいのやつ。
これは本編内容のABC…という転調とは、
まったく違った、「観客をどう引くか」だ。
喜劇があるのか悲劇があるのか知らないが、
原爆を作った男の話が見れるなら、
おもしろそうだ、ということだ。
映画がたくさんある中で、
「正義が悪を倒す話」
「ラブコメ」
「原爆を作った男の話」
があったときに、
最後のものを選ぶよね、
みたいなこと。
で、これがポスターになるべきだ。
だって看板なんだから。
コンセプトが明確で、おもしろそう、
と思えるものが看板になるべきだ。
ジェットコースターの看板は、
「上へ下へ右へ左へ急速にいくのりもの」であり、
観覧車の看板は、
「優雅に高いところまで行けて眺められるもの」
であるべきだ。
案の定、「オッペンハイマー」のポスターは、
実在の男の写真に似たテイストか、
その男が原爆の煙をバックに立っているものであった。
(前者は弱い。後者は、唯一の原爆被爆国日本では、
刺激が強すぎるだろうから、日本公開版では使われていない)
看板とは、
面白そうな内容、その娯楽のコンセプトを、
凝縮したものであるべきだ。
それが「人気芸能人勢揃い」よりも力があるから、
映画は時代を越えられる。
ところが、
「時の芸能人勢揃い」に、
コンセプトが負ける程度のものしか用意できなかったから、
ブロッコリーになってしまったのだろう。
あるいは、
「時の芸能人勢揃い+人気原作」に、
看板要素を足しただけで、
結果わけのわからないものになっているのが、
現在の邦画のだめなところだね。
明確な、「その娯楽内容を示す強い概念」
を打ち出さない限り、映画はおもしろくない。
ジェットコースターの看板が、
座席のブロッコリーポスターになってても、
なんら楽しそうに見えないのと同じだ。
さて、
本題に入るか。
このコンセプトは、
転調し続ける本編と、どのような関係だろう?
仮にABCと単純化したのであった。
ツカミ、Aの部分か?
中盤、Bの部分か?
オチ、Cの部分か?
いろいろなものがあり得る。
Aだと、
「外に出ては行けない村があり、住民は誰もがそれを信じて暮らしていた。
しかしある日外に出る必要があり…」
というのは「ヴィレッジ」のオープニングパートだが、
これをコンセプトにしたわけ。
Cだと、
「驚愕のどんでん返し!」とか、
テーマそのものを語ってしまうタイプ。
でもこれは下手な宣伝で、
なぜならネタバレになるからだ。
オチが先にわかるものほど酷いものはない。
たとえば「いけちゃんとぼく」は、
オチが強烈な物語であるが、
これを事前に宣伝した宣伝部は無能である。
これを隠して、別のコンセプトでヒキをつくるべきだった。
Aの「ぼくにしか見えない不思議な生き物いけちゃんがいる」
だけではヒキにならないことはわかる。
だから、Bをヒキにするべきだったのだ。
Bとは、途中のパートだ。
先に説明すると、
第一ターニングポイント明け、
二幕に突入して非日常世界へ行った時の、
お楽しみポイントになるパートである。
多くの映画では、ここを宣伝コンセプトにする。
「プリティウーマン」が典型的で、
「育ちの悪い女が、金持ちに愛されて、
変身していく」というコンセプトで宣伝され、
中盤の見どころのシーンになっている。
しかもそこでかかるテーマ曲「プリティウーマン」
が素晴らしい、音楽と映画の融合の見事なシークエンスだ。
映画「いけちゃんとぼく」に戻ると、
原作版は小話の集合体であり、
一本化された話ではない。
だから映画化する際に、一本の背骨をつくるべきだ、
と僕は提案してシナリオを書いた。
それが、「いけちゃんがいたり想像の世界に遊ぶ子供が、
現実のいじめに対処しようと頑張れば頑張るほど、
それらが見えなくなってゆく」
というものであった。
これがBのパートだ。
これが機能しなかったのは二つ理由がある。
1. 原作になかったから、宣伝部がホンを読み取れなかった
2. 制作途中で予算が1億減額され(3.5→2.5)、
「想像の世界」を作る予算が消失、
いけちゃんの出番も4割減らされたため、
たんなる子供いじめ話に終始してしまった
(抵抗するために粘土細工を僕は一人で作った)
廊下で、
小豆洗いを含めた、これらの「想像上のいきものたち」が、
別れを告げるシーンを残したのは、
僕のせめてもの抵抗だ。
つまり、ざっくりいえば、
角川映画はBのパートを読み取れてなくて、
原作にはないからいらない、無視できるパートと見ていたようだ。
だとすると、Aだけじゃ足りないから、
Cのオチをネタバレするしか、
強い宣伝方法はない、と判断したわけ。
バカの三段論法である。
このように、
転調するストーリーという本質と、
コンセプトを見誤ると、
大事故になるわけだね。
さて、あなたの物語だ。
あなたの物語は転調するよね。
コンセプトXのパートはどこだ?
Bのどこかにあるだろう。
だからといって、
XXX…と続くわけではあるまい。
飽きちゃうからね。
どう見積もっても10分も続かないだろう。
飽きちゃうからね。
それ以外の展開、転調、パートは用意してるかな?
足りてないから、
次何を書いていいかわからなくなるのでは?
僕はラノベは読まないので偏見で語るが、
この、Bのパートを延々再生産しているのが、
二次創作やラノベじゃないかと思っている。
おざなり的にAやCはあるのだろうが、
Bを延々繰り返したい、と思う心を、
食い物にしている作品群ではないか、
と想像している。
「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」
でラムちゃんが、
「ずっとこの毎日が続けばいいのに」
と言ったあの気持ちだ。
中学や高校の、良かった時代だけを往復したい、
と思う気持ちを延々消費し続けたい願望は、
学園ものがなぜ人気かを説明できる。
もちろん、学園生活だけが対象ではなく、
「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
(=可愛い妹が延々構ってくれる)や、
オレツエーや、
ザマァという感情が、
タイトルになっているよね。
つまり、ラノベとは、
繰り返し繰り返し感じたいBのパートだけを、
取り出してループさせているもの、
のように僕には見えている。
(もちろん名作はそうではないだろうが、
雨後の筍のように生えている森は、
全体としてそう見えている)
中に入ってみればそうではないのかもだが、
少なくとも、
「外に見せるコンセプト
(=売りに直結するもの)」は、
そういうものばかりだよね。
風俗も同じだ。
「○○性癖を満たす90分ロングプレイ」
のような。
そして二次創作ではそのようになっている。
性癖リストが事前公開されているとも聞く。
(間違ったものを買って事故らないように)
二次創作ではストーリーは必ずしも必要ない。
Bというコンセプトだけで走れるだろう。
ラノベがそうなってるか、
もう少し転調を含んで物語的になってるかまでは知らないが、
とりあえず外からはそう見えている。
そもそも80年代の昔からアニメというのは、
「美少女とメカくぅ〜〜〜」
ばかりであった。
それがもうちょっと解像度が上がっただけで、
コンセプト売りということでは、
本質は変わっていないように見える。
実写の宣伝部は、
こうしたことをすべて踏まえて、
Bという強いコンセプトを見出し、
ポスター化しているか?
「オッペンハイマー」の宣伝部は少なくとも、
これらをすべて理解して、
次のようなビジュアルをイコン(言葉のない看板)とした。
シナリオ的には、
「これはどこの転調部?」
と尋ねることになる。
おそらく二幕の、原爆テストパートであろう。
シナリオライターが物語を書くとは、
転調を幾つ用意して、
どのような順で接続するかを考えることである。
このとき、外から見た最も強いコンセプトはどのパートかを、
意識しなければならない。
そしてよくあるミスなのだが、
足りないと思って別のものを足すことはいいんだけど、
足しっぱなしで引かなくて、
ごちゃごちゃになってしまうことがあるんだよね。
強い一つ。
そこに集約して他を捨てる勇気を持とう。
そしてそれを中心にして、
転調パートごとに設計を組んでいくのだ。
(なおこれは最初の話題であるところの、
音楽とはややズレる話である。
現代音楽の場合、コンセプト=サビで、
それを強化するためサビアタマなんてのも発明された。
しかし伝統的なクラシックでは、
主題(繰り返されるメロディ)というものがあり、
この主題をいろいろに変奏して、
また元に戻る、という構成になっているはず。
転調の考え方が映画とは異なる、
と考えることもできるし、
一つのコンセプトから転調バリエーションをつくる、
と考えることもできるね)
2024年03月30日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック