という風に捉えていないのが、
表現初心者だ。
たぶん表現を「伝えるもの」として考えるからだろう。
命令、指示、おしらせ、告知などは、
まあそういうものかもしれない。
「地震だ!津波が来るから逃げて!」
は伝えることが主軸であり、
受け手をどうコントロールするかはどうでもよい。
もしコントロールしたいならば、
「海から津波が来ます。到達まであと20分です。
2階や3階以上の高いところに逃げてください。
渋滞するので車だと間に合わないです。
ビルの上だと津波で壊れない可能性が高いです。
20分で辿り着ける範囲に高いところがない人は、
丈夫な建物の中に隠れて、
ペットボトルに空気を入れてください」
のように、
冷静に情報を整理して伝えるだろう。
避難のパニックを避けるような、
誘導の仕方を考えるだろうね。
さて、これでもまだ「伝える」
ことに終始している。
伝える情報が緊急だからだ。
だが表現というものは、
そんなに緊急に伝えることなどない。
津波到達や戦争開始ほど緊急ではない。
膨大な金を投入する広告だって、
打つ側には緊急だけど、
受け取る側には緊急ではない。
この、緊急度の差を、
表現の素人は理解していない。
広告から、そのへんの町の詩人まで、
何かを表現したい人は、
内部の緊急度が高い。
津波到達なみにだ。
それくらい内圧が高いからこそ、
表現というとてもめんどうくさいものをやり始めるのだ。
だからこそ、
その緊急度合いが、伝わったか、伝わらなかったかで、
測定しようとする。
これは間違いである。
どう伝えれば伝わるか、
その文言や表現をいじり倒して、
まあ大体玉虫色の何も伝わらないものになってしまう。
受け取る側に、
そんな緊急度がないことに、
気づいていない。
表現側の都合で、いっぱいいっぱいなんだな。
告白を考えればわかる。
女子との関係性や空気の構築をせずに、
文脈を無視して、
童貞は自分の思いをぶちまける。
そしてぶちまけることに気持ちよくなりすぎて、
女子の今の気持ちや将来の流れまで、
何一つ考えていない。
もちろん、上手な告白などアドリブではなかなか難しいだろう。
だけど女子は上手な告白を望んでいるのではない。
下手な告白に引くだけのことだ。
「上手に伝える方法」が存在すると勘違いしている、
表現の素人は、
「上手な告白」が存在すると勘違いする。
そうではない。
そういう「上手な表現」はない。
表現とは、自分を一方的に伝えることではないからだ。
表現とは、おしゃべりと同じだ。
相手と自分の間にある種の空気を発生させて、
相手の気分を望む方向に誘導することに近い。
おしゃべりの場合、
相手が見えているから、
それに合わせて適宜変えていけば良い。
プレイボーイは、相手の女の子の状況を見て、
アドリブで空気を変えていくことがうまい。
だから凝った告白などしない。
9割がた空気ができてれば、
あとは「この後ホテル行く?俺は行きたいし、帰りたかったら帰ってもいいけど」
で落ちるらしい。
劇的で感動する告白などいらないのだ。
それまでに空気ができてるかが大事なのだ。
表現は、おしゃべりと異なる。
相手が目の前にいない状態でのものだ。
だが、
常に相手はいて、おしゃべりしていると想定して、
表現はつくられるべきだ。
私が伝えたいのではない。
相手と楽しい時間をすごして、
最後に少しだけ望みを伝えれば、
向こうも乗ってくるだけの話。
これは、伝える側でなく、
伝えられる側になれば、
「届く表現」はどのようなものか、
分析すればわかることである。
世の中にあるあらゆる表現を集めよう。
その中で、あなたに刺さった表現を列挙せよ。
注意したいのは、
あなた自身の特性に応じたものを除外することだ。
たとえば大阪出身だから、
特別にたこ焼きビジュアルが刺さったとかの、
個人的事情を除外するのだ。
そうすると、普遍的な表現だけが、
刺さっていることがわかる。
あなたの特殊な事情に刺さるのは、
クラスタリングされたものだ。
Aというクラスタに刺さるものは、
それに応じて狙ったもので、
Aというパイが大きいほど、Aを狙いに行く。
狭いパイを狙うのをニッチといい、
生存戦略として重要だね。
そうではない、
普遍的な表現を集めよう。
あなたが片親で育ったから、
片親ものはなんでも泣けるとか、
そういう個人的事情を避けて集めよう。
そうすると、
強い表現が集まる。
それは、
「どんな人でも、刺さる表現」だ。
それらが、
どのようにして、受け手をコントロールしているか、
分析するのだ。
最初はこう思っていたが、
このへんで夢中になり、
このへんで驚き、
このへんで感動して、
ああなるほどと思った、
などのように記録するのだ。
それは、
個人的事情のベクトルをもったあなたが、
無名のただの人に戻って、
受け手として感動したことの軌跡である。
そのようにするのだ。
人は個人的事情のベクトルの塊である。
それらのベールをはがして、
ただの人に戻してあげる。
それが表現のするべき仕事である。
だけど、
抽象的なものでそれができるわけではない。
ストーリーのジャンルで言えば、
特別な事情を具体的に持った、
人々という道具を用いるのだ。
なぜそれがただの人に刺さるのか?
「どんな人でもそう思う」ということを「する」から、
刺さるのである。
僕は、表現とは押しつけるものではなく、
引き込むものである、
などとよく言うが、
童貞の告白のように、自分の事情を伝えるのは下手な表現で、
やりちんのホテルのように、
相手をきちんと見て、楽しい時間を過ごして、
いつのまにか結論へ自動的に辿り着くことを、
表現だと考えている。
それって難しくない?
だから価値があるんだよな。
複数の人間で表現をつくると、
うまくいかない理由がこれだと思う。
そのメンバー全員の、
表現に関する玄人具合がそろっていないと、
素人合わせに表現のレベルが低下してしまうのだ。
事実、最近の広告はおおむねそうだ。
誰もが思わず引き込まれる世界の構築に手間をかけず、
ただ結論を押しつけることしかしていない。
映画やドラマも、製作委員会なる複数の集団の、
許可を得なければ作れないことが増えたから、
伝えることしかしなくなっている。
これらは、誤った表現である。
津波ほど緊急ではないよ、所詮。
先日たまたまyoutubeで、
レミゼラブルのDo you hear the people singの場面を見た。
すごい引き込み方だなと感心して、
英語字幕を理解するのに3周して、
おおむねわかった時に涙が出た。
フランス革命の歌であるが、
誰もが頷ける話になっているところが、
人類が到達した素晴らしい表現のひとつだなと感じる。
https://m.youtube.com/watch?v=47E2tfK5QAg
こういう素晴らしい表現が、素晴らしいのだ。(小泉構文)
童貞の告白をしてる場合ではないのだ。
囁きからはじまり、旗を振る行動に出るまで、
帽子を脱ぎ敬意を表す紳士、
最初は驚くが歌い出す淑女、
馬車の上でアジる名もなき若者、
なんだかわからないけど楽しんでる子供。
表現は、人々を裸にして、ひとつにする。
その過程こそが表現だ。
私たちはそれぞれ個人的な事情を抱えた個人だが、
次第に「人」という裸になり、
一つになってゆく。
あの中の登場人物は私であると確信する。
なぜなら、
人は誰しも奴隷にならない高潔な魂をもっているからだ。
結論なんて最後の一行でいい。
衛兵に銃を向けた、
tomorrow comesだけで、
あとは忘れても心に残るんだ。
2024年03月31日
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