2024年03月31日

表現とは、受け取り方のコントロールである

という風に捉えていないのが、
表現初心者だ。


たぶん表現を「伝えるもの」として考えるからだろう。
命令、指示、おしらせ、告知などは、
まあそういうものかもしれない。

「地震だ!津波が来るから逃げて!」
は伝えることが主軸であり、
受け手をどうコントロールするかはどうでもよい。

もしコントロールしたいならば、
「海から津波が来ます。到達まであと20分です。
2階や3階以上の高いところに逃げてください。
渋滞するので車だと間に合わないです。
ビルの上だと津波で壊れない可能性が高いです。
20分で辿り着ける範囲に高いところがない人は、
丈夫な建物の中に隠れて、
ペットボトルに空気を入れてください」
のように、
冷静に情報を整理して伝えるだろう。

避難のパニックを避けるような、
誘導の仕方を考えるだろうね。


さて、これでもまだ「伝える」
ことに終始している。
伝える情報が緊急だからだ。

だが表現というものは、
そんなに緊急に伝えることなどない。
津波到達や戦争開始ほど緊急ではない。

膨大な金を投入する広告だって、
打つ側には緊急だけど、
受け取る側には緊急ではない。

この、緊急度の差を、
表現の素人は理解していない。

広告から、そのへんの町の詩人まで、
何かを表現したい人は、
内部の緊急度が高い。
津波到達なみにだ。

それくらい内圧が高いからこそ、
表現というとてもめんどうくさいものをやり始めるのだ。

だからこそ、
その緊急度合いが、伝わったか、伝わらなかったかで、
測定しようとする。

これは間違いである。

どう伝えれば伝わるか、
その文言や表現をいじり倒して、
まあ大体玉虫色の何も伝わらないものになってしまう。


受け取る側に、
そんな緊急度がないことに、
気づいていない。
表現側の都合で、いっぱいいっぱいなんだな。



告白を考えればわかる。
女子との関係性や空気の構築をせずに、
文脈を無視して、
童貞は自分の思いをぶちまける。
そしてぶちまけることに気持ちよくなりすぎて、
女子の今の気持ちや将来の流れまで、
何一つ考えていない。

もちろん、上手な告白などアドリブではなかなか難しいだろう。
だけど女子は上手な告白を望んでいるのではない。
下手な告白に引くだけのことだ。

「上手に伝える方法」が存在すると勘違いしている、
表現の素人は、
「上手な告白」が存在すると勘違いする。
そうではない。

そういう「上手な表現」はない。
表現とは、自分を一方的に伝えることではないからだ。

表現とは、おしゃべりと同じだ。

相手と自分の間にある種の空気を発生させて、
相手の気分を望む方向に誘導することに近い。

おしゃべりの場合、
相手が見えているから、
それに合わせて適宜変えていけば良い。
プレイボーイは、相手の女の子の状況を見て、
アドリブで空気を変えていくことがうまい。
だから凝った告白などしない。
9割がた空気ができてれば、
あとは「この後ホテル行く?俺は行きたいし、帰りたかったら帰ってもいいけど」
で落ちるらしい。

劇的で感動する告白などいらないのだ。
それまでに空気ができてるかが大事なのだ。


表現は、おしゃべりと異なる。
相手が目の前にいない状態でのものだ。
だが、
常に相手はいて、おしゃべりしていると想定して、
表現はつくられるべきだ。

私が伝えたいのではない。
相手と楽しい時間をすごして、
最後に少しだけ望みを伝えれば、
向こうも乗ってくるだけの話。

これは、伝える側でなく、
伝えられる側になれば、
「届く表現」はどのようなものか、
分析すればわかることである。



世の中にあるあらゆる表現を集めよう。
その中で、あなたに刺さった表現を列挙せよ。

注意したいのは、
あなた自身の特性に応じたものを除外することだ。
たとえば大阪出身だから、
特別にたこ焼きビジュアルが刺さったとかの、
個人的事情を除外するのだ。

そうすると、普遍的な表現だけが、
刺さっていることがわかる。


あなたの特殊な事情に刺さるのは、
クラスタリングされたものだ。
Aというクラスタに刺さるものは、
それに応じて狙ったもので、
Aというパイが大きいほど、Aを狙いに行く。
狭いパイを狙うのをニッチといい、
生存戦略として重要だね。

そうではない、
普遍的な表現を集めよう。

あなたが片親で育ったから、
片親ものはなんでも泣けるとか、
そういう個人的事情を避けて集めよう。

そうすると、
強い表現が集まる。

それは、
「どんな人でも、刺さる表現」だ。

それらが、
どのようにして、受け手をコントロールしているか、
分析するのだ。

最初はこう思っていたが、
このへんで夢中になり、
このへんで驚き、
このへんで感動して、
ああなるほどと思った、
などのように記録するのだ。

それは、
個人的事情のベクトルをもったあなたが、
無名のただの人に戻って、
受け手として感動したことの軌跡である。

そのようにするのだ。


人は個人的事情のベクトルの塊である。
それらのベールをはがして、
ただの人に戻してあげる。
それが表現のするべき仕事である。

だけど、
抽象的なものでそれができるわけではない。

ストーリーのジャンルで言えば、
特別な事情を具体的に持った、
人々という道具を用いるのだ。

なぜそれがただの人に刺さるのか?

「どんな人でもそう思う」ということを「する」から、
刺さるのである。


僕は、表現とは押しつけるものではなく、
引き込むものである、
などとよく言うが、
童貞の告白のように、自分の事情を伝えるのは下手な表現で、
やりちんのホテルのように、
相手をきちんと見て、楽しい時間を過ごして、
いつのまにか結論へ自動的に辿り着くことを、
表現だと考えている。

それって難しくない?
だから価値があるんだよな。


複数の人間で表現をつくると、
うまくいかない理由がこれだと思う。
そのメンバー全員の、
表現に関する玄人具合がそろっていないと、
素人合わせに表現のレベルが低下してしまうのだ。

事実、最近の広告はおおむねそうだ。
誰もが思わず引き込まれる世界の構築に手間をかけず、
ただ結論を押しつけることしかしていない。

映画やドラマも、製作委員会なる複数の集団の、
許可を得なければ作れないことが増えたから、
伝えることしかしなくなっている。

これらは、誤った表現である。
津波ほど緊急ではないよ、所詮。




先日たまたまyoutubeで、
レミゼラブルのDo you hear the people singの場面を見た。
すごい引き込み方だなと感心して、
英語字幕を理解するのに3周して、
おおむねわかった時に涙が出た。

フランス革命の歌であるが、
誰もが頷ける話になっているところが、
人類が到達した素晴らしい表現のひとつだなと感じる。

https://m.youtube.com/watch?v=47E2tfK5QAg

こういう素晴らしい表現が、素晴らしいのだ。(小泉構文)
童貞の告白をしてる場合ではないのだ。

囁きからはじまり、旗を振る行動に出るまで、
帽子を脱ぎ敬意を表す紳士、
最初は驚くが歌い出す淑女、
馬車の上でアジる名もなき若者、
なんだかわからないけど楽しんでる子供。

表現は、人々を裸にして、ひとつにする。
その過程こそが表現だ。
私たちはそれぞれ個人的な事情を抱えた個人だが、
次第に「人」という裸になり、
一つになってゆく。
あの中の登場人物は私であると確信する。
なぜなら、
人は誰しも奴隷にならない高潔な魂をもっているからだ。

結論なんて最後の一行でいい。
衛兵に銃を向けた、
tomorrow comesだけで、
あとは忘れても心に残るんだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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