物語の深さと浅さって何が違うんだろう?
ストーリー? 人間性?
僕は感情の深い/浅いで区別できそうだと思っている。
ざっくりいうと、深い感情には、時間が必要だ。
映画はつまり、
二時間かけて、それでしかできえない深い感情をつくることをやっている、
と考えられる。
この平均的な深さに対して、
浅いものだと、「浅い」と判断されると思うよ。
それは、それが完成する時間が関係している。
二時間かけてつくりあげる深い感情か、
5分でつくる浅い感情か、ということになる。
もちろん、画面の外にある深い感情を持ってくる手もある。
たとえば、「一人娘の結婚式前夜の父親の気持ち」とか、
「長年飼ってきた犬が死んだときの気持ち」とかは、
鉄板だ。
観客が深い感情に、自動的になるわけだね。
パブロフの犬のようなことだ。
それが発明された時はすごいと思われたかもれしないが、
まあ擦られ続けているから、
それをもってきても「浅い」なあ、と思うだけの話だね。
つまり、
映画ならではの深い感情がないと、
深い映画にはならず、浅い映画になってしまうということだ。
浅い感情というのは、
出来る時間もインスタントだし、
持続する時間もインスタントだろう。
秒や5分や10分で出来上がり、
秒や5分や10分で消えてしまうんだろうね。
深い感情というのは、
すぐに立ち上がらないかもしれないが、
二時間かけてつくりあげていくものであり、
それが(名作ならば)一生続く感情になるだろうね。
むしろ、ある感情を励起させて、
それを二時間かけて変化させて、
彫り込み、じっくりと焼き上げて、
完全に固定したものにするのが、
映画というものであるかもしれない。
それくらい、
時間をかけた感情をつくりあげているだろうか?
ワンシーンしか持続しない喜びとか、
ワンシーンで終ってしまう悲しみとか、
そういうことばかり書いていないか?
一日数シーン単位で書くと、
その日しか持続しない感情で終っていないか?
つまり、
今日悲しいシーンを書いたら、
明日はそれを忘れてて、
その悲しみは持続していないだろ、
ということを言おうとしている。
昨日の悲しみに戻り、その続きを書くどころか、
何日も何カ月もその悲しみに向き合い、
それを持続させつづけ、
そしてより深い感情に窯変させているか、
ということだ。
想像するだに、これは体力がいる。
同じ感情をずっとキープすることは、
結構体力を使う。
人間は気分や感情を変えることで、
忘れていく生き物だ。
それをずっと同じ状態をキープすることは、
キツイ行為なわけ。
だから僕はいきなり長いものを書くのではなくて、
一日で書き終えられるレベルのものを沢山書いたほうがいい、
と言っている。
15分から30分までが、
一日でざっと書ける限界だと思うので、
それくらいをたくさん書くべきだ。
2時間でやるべきことは、
それよりもずっとずっと体力的にキツイことだ。
何カ月もかけて、
2時間の深さに到達しなければならないからだ。
それはつまりどういう感情だろう?
ひとことで言えるものではない。
その作品全体で言えるものだ。
それが芸術というものだ。
ひとことで言えないものだから、
2時間かけて表現するわけだね。
その感情はそこにしか存在しない。
そして深いものである。
だから価値があるわけだ。
ということで、
それは生半なことでは書けない。
ずっとその感情に深く入ることが必要だ。
下手したらその感情に持っていかれてしまう人もいる。
鬱になったり、自殺する作者もいることだろう。
それに持ってかれずに、
深く潜行することだ。
3日持つかな? 一週間持つかな?
一か月持つかな?
半年持つかな?
体力勝負だ。
悲しい話、バッドエンドよりも、
ハッピーエンドを書いたほうが、
健康にはいいだろうね。
「ここにしかない、深い喜び、深い幸せ」
とはなんだろう?
二時間かけて描く、深い深い喜びとはなんだろう?
まだ名前のついていないその感情はどんなものだろう?
それを考えることは、
映画のテーマを考えることでもあるね。
2024年05月08日
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