2024年05月26日

なぜフィクションには意味がなければならないか

わざわざ見終えたあとに、意味がないと腹が立つからだ。
見終えたあとに意味があると、
「意味のあるものを見たという満足感」があるからだ。


風俗のむなしさは男子しか分からないだろうか。
90分だか45分だかを楽しんだとして、
お金払って帰るときに、
虚しさに取りつかれない男子はいないだろう。
なんだったんだよ、と意味が分からなくなる。
「まあ気持ちよかったしよかった」となることは、
あんまりない。
一時の欲望に負けて無駄なことをした、
もっと有意義な時間はなかったのか、
などと思うことがよくある。

ものすごいアタリを引くことがないからだろうかね。
まあこのへんか、という感じにお金を払うこと自体が、
なんだかむなしくなるのかもしれない。

映画という娯楽も、
風俗と変わらない。
2時間コースで、
何かモノとして残るわけじゃないし、
ただ光ったスクリーンを見て出るだけだ。

それが風俗と同様に、
何もあとに残らない、
ただのから騒ぎだと、むなしくなるということだ。


気持ちよかったからいいだろ?
だけだと、むなしくなるんだよね。

すごいアクションを見たり、
すごい美人を見たり、
すごい風景を見たりしても、
なんだかむなしくなるんだよ。


逆に。

何か意味があると、人はその風俗を受け入れられる。
「彼女がいなくてむなしかった時間を埋めたのだ」
とか、
「こういう失敗をする勉強の時間だったのだ」
とかなら、
わりと受け入れられる。
しかし、
「単に気持ちいいだけで、
あとには何も残らない」ものに、
人は虚しさを覚えるのだろう。

だから、
映画には意味が必要なのだ。

意味さえあれば、
「こういう意味のある時間だった」と、
受け入れることができるんだよね。


もちろん、
オッペンハイマーみたいに、
「原爆は悪でした」を言うためだけに、
3時間付き合うと、
「その意味に対してこれは割りが合わない」
ということにもなる。

意味とそれに費やされる労力は、
釣り合わなければならない。

しかも、
客というものは「どれだけ値段以上に得したか」
を求めるものだ。

適正価格適正内容では満足しない。
ちょっと得したかどうかが大事なんだよな。

ということで、
価格以上の価値を得られることが、
求められていることだ。

コスパというべきか、
時間あたりだからタイパもある。

だから、2時間2000円以上の、
価値、意味をもらえるものだけが、
「見て得した」となる。

それ以下、何もないものは、
「見て損した」となる。

満足とはつまり、
意味かあったことだと思うわけ。


それが、
「俺様が主張する特別新しい考え」ではないんだよね。
「自分もうっすら知っていたことではあるが、
今はじめて言語化されたこと」
であると、ちょうどよく「得をした」と思うはずだ。

だから、映画には意味が必要なのだ。


もしあなたが今日死ぬとして、
その間際に、
「あなたの一生には何の意味もなかったです。
はい、おしまい」と言われたらむなしいだろう。

「あなたの一生はここで終わりですが、
実はこういう意味があったのです」となると、
ああ、よかった、人間やってて、
ってなる。
それ(の一部)を、求めているのが人間というものだ。

意味のないもの。
安い意味のあるもの。
お値段以上の意味を与えてくれるもの。
人生で生きる指針になるくらい意味のあるもの。

後ふたつが、
映画のやるべきことだ。
前ふたつは、カスであり、
時間の無駄なのだ。


それでも風俗へ男子はいく。
なんで?
そういう夢、得する何かを求めてだ。

おっさんになってしまったら、
「よーし意味のないから騒ぎでぼったくられるぞー」
と覚悟することもある。
映画館でも、
「どうせしょうもないのだろうが、
ここだけは見ておかないといけないな」
なんて覚悟しながら見ることもある。
でもそれは、
夢を見過ぎて諦めた人の、から騒ぎにすぎない。


夢を見れない物語は、
だから意味がない。

テーマがないもの、
テーマが微妙なものは、
だからカスだね。
作る意味がないとすら思う。
posted by おおおかとしひこ at 06:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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