二幕、ストーリー中盤は、
大きくは障害を越えてゆく段取りだ。
俯瞰から見るとそうなのだが、
主人公目線=観客から見ると、
一難去ってまた一難に見えるわけだ。
三幕構成理論の祖、シドフィールドによれば、
二幕の展開部には、
4つの障害があるとよいとされている。
このパートが60分あることから、
15分に一回ハードルを越えればよい計算だ。
とはいえ、
きっちり15分に一回ピンチが来さえすればよし、
というわけではなく、
ストーリーに応じてその尺は前後するだろうね。
別に4回でなくても、5回でも3回でもいいかもしれない。
細かいものを数えれば多くなるだろうし、
大きなものを数えるだけなら少なくなるだろうし。
だから、参考にするにせよ、
これを遵守したら面白くなる、という保証はない。
あくまで主役はストーリーであり、
4回ハードルがあればおもしろくなるわけではない。
さて。
障害というのは、
目的があって初めて出てくるものだ。
ただ生きているだけでつらい話は、
ストーリーではない。
ある目的があり、それをなそうとする主人公に対して、
無理難題や、そもそもそれをしてはいけないなどの、
後ろ向きの抵抗勢力がいるなどの、
それを越えない限り前には進めない、
という状況があるわけだ。
これを主人公から見ると、
一難が「やって来る」ように見える。
しかし実のところ、主人公が「進んでいる」から、
相対的に向こうからやって来るだけだ。
嵐はやって来るのではなくて、
進んだ結果、嵐に突入することになるわけ。
もちろん、嵐が来るぞ、と左右に避けることも、
展開のひとつである。
作者目線からすると、
設置した罠のような感覚だろうか?
主人公がこちらに来るから、前もって落とし穴をつくっておく、
という感覚に近い。
それをクリアしたらこっちだから、
その先にこのようなハードルや落とし穴をつくったれ、
という感覚になるだろうね。
だけど、主人公目線(観客目線)からすると、
(進んだ結果)ハードルが「やって来る」ということに見えているわけだ。
この辺が、俯瞰視点と登場人物視点の違いだね。
うまく切り替えないと、
「じっと待っている主人公に、何回もランダムな嵐がやって来る」だけになってしまう。
生きてるだけでトラブルに巻き込まれるだけの、
ただ翻弄されるだけの話だ。
もちろん、そうした悲劇の主人公もメロドラマではよくあるものだが、
それは「進んだ」結果、嵐にあったのだ、
ということを忘れてはならない。
あくまで、ハードルはじっとしている人には襲い掛からないのだ。
で、一難をクリアしたら、
次の一難がまた「やって来る」わけだ。
そのテンポ感、次のハードルがいつ来るか、
それがどれくらい大きなものか、
というのは、ストーリー次第で変わる。
逆にいうと、中盤でコントロールできる、
というわけ。
退屈な「一難去ってまた一難」は、
・簡単な一難のため、緊張感がない
・一難を失敗したときのリスクがないから、緊張感がない
・緊張感が過ぎて、クリアしたときの安堵感がデカすぎて、
それでストーリーが終わってしまったかのように感じる
・一難去ったあとの次の一難が来るのが遅い
・次の一難が早すぎて置いてけぼりになる
・次の一難が簡単すぎて緊張感がない
・次の一難が難しすぎて作者が解決策が思いつかない
などがあげられるだろうか。
つまり、
「的確な『一難去ってまた一難』をつくること」
が、
二幕をうまく回していくコツだと言えようか。
また、この一難は、
メインプロット上の一難であることもあるが、
サブプロットの一難であることもある。
仮に仕事をメインプロットとして、
それをクリアするための一難があるとしたら、
ラブストーリー上では、
「仕事にかまけて私にかまけていない」という一難が発生するということだね。
じゃあ彼女とデートに行ってしまって機嫌を取ったとしても、
今度はそのために仕事上で重大なトラブルが発生してしまうということだ。
主人公の行動が原因でさらなる一難になる、
というのは、よくある展開だね。
このように、
どういう一難があり、対応する行動があり、
それによってどういう一難がまた発生するか、
というコンボを組むことが、
中盤のストーリーを組むことだといっても過言ではない。
そして気を付けるべきことは、
ただトラブルバスターを描くのが映画ではない、
ということ。
その時々で登場人物たちの気持ちに入ったり、
感情移入したりなどの、
感情で見守ることが大事だというわけだ。
トラブルの大きさに驚いたり、
解決して喜んだり、
喜んだのもつかの間、次のトラブルにおののいたり、
恋したり、恐怖したり、
七色の感情で見ているということである。
むしろ、こうした深い感情を示すための、
トラブルとは小道具、スパイスに過ぎないかも知れないわけ。
順調な恋愛はつまらない、
トラブルや刺激のある恋愛こそがおもしろいのよ、
と峰不二子も言ってそうだ。
映画とは、そのような起伏を描くものであり、
成績優秀で品行方正な聖人が、
順調に大企業に就職して、
無難に結婚して定年退職する話を描くものではないのだ。
最近の企業のCMは、
こうした無難を描くものがとても多くなっていてつまらない。
僕らはそれらを無難ザグレートと呼ぶことがある。
(シュワルツェネッガーの出世作、
コナンザグレートをもう知らない人もいるか)
無難はおもしろいストーリーの敵だ。
一難去ってまた一難の、
波に揺れ続ける舟がストーリーである。
ぎりぎり転覆しないから、ハラハラするんだな。
そして、そもそもその波には、
出航したから出会ったのだ。
目的地があり、
そこに至るための道筋だということさ。
大航海時代は、そうした伝説的な冒険譚が多かっただろう。
文明は人を危険から遠ざけているから、
危険察知能力や克服能力は、
人類だんだん落ちてきているかもしれないね。
平和ボケというやつだね。
困ったら、海洋冒険をイメージするといいかもしれない。
このストーリーは、どこで嵐に遭うのか?
を考えると、
一難去ってまた一難、
という考え方を整理できるかもしれない。
2024年05月28日
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