突然「風魔の小次郎」がバズってるなーと思ったら、
「あなたの中の不知火はどこから?」
に対するアンサーとしてだった。
僕の不知火はドカベンだけど、
八将軍の不知火の、顔も出さずに死ぬ(原作版)は、
ものすごいインパクトで、
40年経ってもまだ語り種になるレベルだよね。
さて、このことを分析しておく。
車田正美は、掟破りの天才であったということ。
謎の八将軍がそろう→こちらも揃える
→メンバー交換
→これから1人ずつ対決してゆく
という文脈を掟だとしよう。
掟とはすなわち、
これから絶対に守られるであろう、
お約束といってもよい。
もう少し固くいうと、
慣習、不文律などのことである。
これらを破るのが掟破りである。
掟のとくに強い場所は、葬式であろうか。
皆喪服を着なければならず、
慣習に従い、
坊主に従わなければならない。
急に全裸でびっくりするほどユートピアを踊るわけにもいかない、
厳粛な場である。
場の圧が強い、ともいうべきか。
蛭子能収は、こういう場で笑っちゃうんだって。
そこの掟破りをしたくなるんだろうね。
きっとおもしろい掟破りをたくさん思いつくのだろう。
さて、
掟破りをして「なにい!?」と驚くには、
掟が厳粛で、強くなければならない。
たとえば今や婚前交渉などはしないほうがおかしいくらいだが、
かつて婚前交渉は厳禁であった。
初夜ではじめて三つ指ついてよろしくお願いしますが、
掟であった。
こんな時の掟破りの婚前交渉は、
相当ドキドキして興奮しただろうね。
何が言いたいかというと、
掟破りを面白くするには、
掟を強くしなければならないのだ。
不知火の死が我々にとって鮮烈なのは、
「顔が黒塗りのまま死んだ」ということだ。
黒塗りの顔は、いずれ活躍するときにベールが剥がれることが期待されている、
暗黙の了解がある。
それを破って、黒塗りのままついに顔が不明、
というところが鮮烈なわけ。
もしこれが、
顔のある八人が集まり、
メンバー交換後、「すでに一人減った」として、
血を吐いて倒れたとしても、
ここまでのインパクトはなかっただろう。
黒塗りの顔がバッと血を吐くから、インパクトがあったわけだね。
車田正美はこうした、
掟をみつけて、それを破る天才でもあった。
誰が木刀対決中に、その殻が剥がれて中から黄金剣が出てくる、
なんて思いつくんだよ。
それは、「不良的な木刀対決である」や、
「木刀は木刀である」という掟を、
見事にちゃぶ台返ししているから面白かったのだ。
さて、これはすなわち、カウンターカルチャーということである。
なにがしかの支配的カルチャーがあり、
それをひっくり返すことがおもしろい、
というやつだ。
80年代〜90年代は、
サブカルチャー=カウンターカルチャーが、
たしかにおもしろかった。
カルチャーの支配力がきつかったからだ。
巨人の支配する野球を、
阪神が崩す瞬間が興奮したわけ。
尾崎豊の「この支配からの、卒業」も、
支配前提の歌だった。
ところが、
カルチャーが弱くなってくると、
どんなにカウンターを打っても詰まらなくなるのよね。
サブカルが元気ないなーと思えるのも、
そういうことだと思う。
否定するべき前任者がいないのだよね。
否定するべき前任者が、破壊者だからな。
ということは、
破壊せずにコツコツ積み上げよ、
というのがカウンターになってしまう。
最近の若者はおとなしいなどというが、
カウンターカルチャーのカウンターカルチャーなんだろう。
というわけで、
物語にはカルチャー側、支配者側が必要だ。
それが場の圧を加えるのだ。
それを覆す掟破りが、興奮するのだ。
「アナと雪の女王」の感情のピークはエルサの家出だが、
ここには「王女としての圧、いい子にしてなければならない」や、
「魔法で傷つけたトラウマ」などがカルチャーになっている。
それを振り捨ててカウンターにする、
掟破りの家出が、
だから興奮するわけ。
ここまで極端でなくても、
女の子を「いい子でいろ」と押し付けた家庭、
というのはよく出てくる。
それを倒すのは面白いんだよね。
フロイトを紐解けば、
エディプスコンプレックスとしても説明される。
フロイトの時代は男の心理しか解説してないが、
基本的には父殺しを経てしか、
男は一人前になれない。
父殺しはつまり、カルチャーに対して、
掟破りをすることでしか実現しないわけ。
物理的に殺してもいいし、
何かを超えてもいいし、
家出してもいい。
成人の儀式的なものでも構わない。
掟破りをすることこそが、
物語的だと知っておくといいだろう。
ということで、
破壊し尽くされたカルチャーたちから、
私たちは場の圧を強くする何かを見つけなければならない。
タブーも一つある。タブー破りはおもしろいよね。
2024年04月23日
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