2024年06月01日

冷静な情熱

熱を持とう。キャラクターは熱がある。
その熱に充てられて、
観客は巻き込まれていく。

でも派手な、分かりやすい情熱だけでなくてもよい。
冷静な情熱というものも人間にはあるからね。


うおー、ぐおおおおという、
テンションが高いものを描いてもよい。
しかしそれが持つのは5分10分じゃないかな。
それだけで2時間が持つとは思えないんだよな。

人が持つ、もっとふつふつとした感情は、
テンションが上がれば表現できるとも限らない。

誰に止められてもやるとか、
誰にも頼まれていないのにやるとか、
黙って一人で積み上げているとか、
そういう情熱だってあるよね。

なんでそんなことをやるの?
って誰かに問われたときに、
ようやくその秘密が明らかになるかもしれない。
そう思うように至ったエピソードなどがあれば、
そこに感情移入することになるだろうね。
「ああ、そういうことならば、
それをこんなにしたい、
という思いは理解できる」となる。
そうすれば、
「それが叶えられたらいいな、
叶えられるなら、その瞬間を見てみたい」
となっていくのだ。

情熱的であれ、
というのは、
イタリア人みたいになれ、
ということではない。
大阪人みたいにうるさくせよ、
ということのみを意味しない。
寡黙な東北人は、情熱がないことになってしまう。
そうではない。
誰もが内部に熱い炎を抱えている。
それを常に外に出して、
陽キャテンションアゲアゲで行く必要はない。

もちろん、そういう分かりやすいキャラクターがいてもよい。

しかし、
人が常温で接して、
そのうち熱に当てられる、
低温やけどのような状態が、
物語とつきあうってことじゃないかと思うよ。


もちろん、全員イタリア人とか、
全員大阪人とか、
全員怒ってる韓国人みたいな、
やかましい世界をつくってもいいよ。
それはそれで面白くなるだろう。
でもロシアとか北海道みたいな、
寒い中でも黙って情熱の炎を燃やし続けるさまがあってもいいんだよね。

舞台の温度で変わってくるのかな。

逆に、
南国の熱いテンションの人が、
網走に飛ばされたらどう変化するだろう?
北国の冷静な情熱家が、
急にハワイに飛ばされたらどうなるか?
そういう変化を考えてもいいよね。

次第に、その土地の温度感にあってくるのかな。
それでも、
内なる情熱は、
変わらないだろう。
(前者の傑作に「クールランニング」があった)


そんな風に、情熱の表し方を考えよう。
情熱のない人が、
情熱のある人に当てられて、
どんどんテンションがあがって行ってもよい。

外にださないと、内なるものはみえないから、
そのキャラクターで表現するほかにも、
相手の変化で見せていくことでも見せられる。
どういう風に表現するかは、
ストーリー次第だし、
同じストーリーだって表現を変えて書き換えることもできるよ。

効果的かどうか判断するには、
両方が見えていないとフラットな判断はできないだろうね。
posted by おおおかとしひこ at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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