2024年04月26日

抽象は絵に撮影できない

私たちは、抽象を具体に変換して撮影する。
抽象をそのまま表現することはできない。

たとえば、
絶望を撮ることはできない。
大きいを撮ることはできない。
資本主義を撮ることはできない。


絶望を表現したかったら、
信じていた人に裏切られたとか、
実家が全焼したとか、
会社が倒産したとか、
母国が戦争で負けたとか、
死刑が確定したとか、
ホストが自分を好きじゃなかったとか、
なんでもよいから具体が必要だ。

「そりゃ絶望もするわ」とみんなが納得する文脈を作った上で、
その人の顔を撮れば、
その人がどんな顔をしていても、
「絶望した顔」に見える。
(モンタージュ効果)

たとえばこの写真は有名だけど、
95DBE3D0-06DA-4E8E-8E09-96DA73EF878B.jpeg

周囲の文脈、株式市場やノーパソを持ってる、
ということがわかるから、
このおじさんは全財産を失い、
絶望してるとわかるわけ。
周りの風景を消して、小道具もなしにしたら、
ただのぼーっとした、
力の抜けた顔のおじさんでしかない。
(ちなみにこの写真を探すのに、
「株価絶望おじさん」と画像検索したらでてきて笑った)

この人は「絶望した顔」をしてるから絶望してるのではなく、
「絶望に足る文脈にいる」から絶望するのだ。

もちろん我々は、
「そんな顔になるならすごい株価が落ちたのだろう」
なんて想像するけれど、
顔よりも周囲文脈の影響の方が強いのは、
背景を消してみればわかることだ。

たとえば街中でノーパソも持たずにこの顔をしたおじさんが立ってたら、
ただの変な顔のおじさんだ。
(うんこ漏らしたの?くらいかな)

顔芸は、だから意味がない。

具体的な文脈こそが、
抽象的な絶望を理解させるのだ。



「大きい」を撮ることはできない。
これも抽象概念だね。
大きい飛行機を撮ることはできる。
背の大きい人や体重の大きい人を撮ることはできる。
大きいケーキを撮ることもできる。
そのようにして、
抽象概念を具体に落とす必要がある。

なんなら、どんなことが起きても落ち着き、
最善の策を考えて実行する男に、
「人間としての大きさ」を感じる、
という、「大きい」の表現法もあろう。


資本主義を撮ることはできない。

乞食の前を歩く高そうなスーツの男や、
貧困女子が立ちんぼやってる絵や、
工場で奴隷のように働かされる様を、
撮ることはできる。

だけどそれは資本主義そのものではない。
資本主義の結果の一つに過ぎない。

つまり象徴だ。

ある小さな具体的ななにかをもって、
大きな何かを象徴するのだ。

汚いコインがあって、
裏は汚れているのに表はきれいで、
このきれいな面のため、
裏は汚れている、それが資本主義だ、
みたいにやるわけ。

そのスケール感の大小こそが、
表現のスケール感を決めるといえる。

象徴される抽象の大きさ/具体物の大きさ
が、そのスケールの定義かな。



逆にいうと、
抽象をいかに具体に象徴させて、
小さいもので大きなものを描くか、
が「絵作り」だと言えると思うんだよね。
そのために、文脈を用意する。
そういう逆算の効いてるのが、
すぐれた脚本なのだ。
(なかなか気づかれないんだけど)



プロットで危険なのは、
「絶望する」とか「絶望的な状況」
なんて風に抽象で書いてあることだね。
これは具体じゃないから、
フィルムでは表現できないということに、
思いついた時点では気付いてないわけ。

それどころか、できたと思い込んでる。
だから、
実際書く時に困る、書けなくなるんだよ。
posted by おおおかとしひこ at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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