私たちは、抽象を具体に変換して撮影する。
抽象をそのまま表現することはできない。
たとえば、
絶望を撮ることはできない。
大きいを撮ることはできない。
資本主義を撮ることはできない。
絶望を表現したかったら、
信じていた人に裏切られたとか、
実家が全焼したとか、
会社が倒産したとか、
母国が戦争で負けたとか、
死刑が確定したとか、
ホストが自分を好きじゃなかったとか、
なんでもよいから具体が必要だ。
「そりゃ絶望もするわ」とみんなが納得する文脈を作った上で、
その人の顔を撮れば、
その人がどんな顔をしていても、
「絶望した顔」に見える。
(モンタージュ効果)
たとえばこの写真は有名だけど、
周囲の文脈、株式市場やノーパソを持ってる、
ということがわかるから、
このおじさんは全財産を失い、
絶望してるとわかるわけ。
周りの風景を消して、小道具もなしにしたら、
ただのぼーっとした、
力の抜けた顔のおじさんでしかない。
(ちなみにこの写真を探すのに、
「株価絶望おじさん」と画像検索したらでてきて笑った)
この人は「絶望した顔」をしてるから絶望してるのではなく、
「絶望に足る文脈にいる」から絶望するのだ。
もちろん我々は、
「そんな顔になるならすごい株価が落ちたのだろう」
なんて想像するけれど、
顔よりも周囲文脈の影響の方が強いのは、
背景を消してみればわかることだ。
たとえば街中でノーパソも持たずにこの顔をしたおじさんが立ってたら、
ただの変な顔のおじさんだ。
(うんこ漏らしたの?くらいかな)
顔芸は、だから意味がない。
具体的な文脈こそが、
抽象的な絶望を理解させるのだ。
「大きい」を撮ることはできない。
これも抽象概念だね。
大きい飛行機を撮ることはできる。
背の大きい人や体重の大きい人を撮ることはできる。
大きいケーキを撮ることもできる。
そのようにして、
抽象概念を具体に落とす必要がある。
なんなら、どんなことが起きても落ち着き、
最善の策を考えて実行する男に、
「人間としての大きさ」を感じる、
という、「大きい」の表現法もあろう。
資本主義を撮ることはできない。
乞食の前を歩く高そうなスーツの男や、
貧困女子が立ちんぼやってる絵や、
工場で奴隷のように働かされる様を、
撮ることはできる。
だけどそれは資本主義そのものではない。
資本主義の結果の一つに過ぎない。
つまり象徴だ。
ある小さな具体的ななにかをもって、
大きな何かを象徴するのだ。
汚いコインがあって、
裏は汚れているのに表はきれいで、
このきれいな面のため、
裏は汚れている、それが資本主義だ、
みたいにやるわけ。
そのスケール感の大小こそが、
表現のスケール感を決めるといえる。
象徴される抽象の大きさ/具体物の大きさ
が、そのスケールの定義かな。
逆にいうと、
抽象をいかに具体に象徴させて、
小さいもので大きなものを描くか、
が「絵作り」だと言えると思うんだよね。
そのために、文脈を用意する。
そういう逆算の効いてるのが、
すぐれた脚本なのだ。
(なかなか気づかれないんだけど)
プロットで危険なのは、
「絶望する」とか「絶望的な状況」
なんて風に抽象で書いてあることだね。
これは具体じゃないから、
フィルムでは表現できないということに、
思いついた時点では気付いてないわけ。
それどころか、できたと思い込んでる。
だから、
実際書く時に困る、書けなくなるんだよ。
2024年04月26日
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