よくある批評のひとつに、
「よくできてる」がある。
これを言われたら、
良かった、よくできてるんだ!と思ってはいけない。
これはどちらかというと、ほめではなく、批判である。
よくできてる、
という時、分析的な理性が働いている状態だ。
それはつまり、
「夢中になれなかった」という告白に他ならない。
ほんとうに映画を楽しんでいたら、
「おもしろかった!」とか、
「わくわくした!」とか、
「感動した」とか、
「自分の人生に照らし合わせて、こんな経験があるとは」とか、
「驚いた」とか、
「大爆笑!」とか、
「こんな世界があったらなあ、と思った」とか、
「よかった!」とか、
とにかく、
「心が動いた」感想が出てくるはずだ。
なぜなら、
映画とは、美しい構造の披露の場ではなく、
エンターテイメントだからだ。
だから、その娯楽に夢中になったかどうか、
ということが本当の基準だ。
時間を忘れて、夢中になって、
明日の仕事を忘れてた、どうしてくれる、
というクレームこそが、
最高の絶賛である。
あなたは心を奪わなければならない。
なのに、
その心の外の理性で、
「よくできてる」なんて言われるということは、
相手に考える余地を与えてしまった、
という失敗なのだ。
「好き!どうしようもなく好き!」ではなく、
「年収がいくらで、将来性はこれ」などのように、
値踏みされているということだ。
たしかに、批評家は、
映画に夢中になるような感情と、
分析する理性とを、
両方働かせながら映画を見るものだから、
理性が勝って分析に走り、
よくできてる、構造や構成はとてもよい、
などと出来るわけ。
でも、
理性で分析する仕事を批評家にさせず、
「仕事を忘れて夢中になってしまった!
批評家失格だ!」
と後悔させるほどに夢中にさせていない、
ということなのだ。
「なんだか分からないが、異様なパワーを感じた。
俺はこれを批評する言語を持っていない」
などといわせるほうが、
「よくできてる」といわれるより、
よっぽどよいわけ。
つまり、
「よくできてる」なんて言われるってことは、
舐められてるんだよ。
相手に考える余地を与え、
分析させる時間を与え、
それだけの時間、
相手は退屈してるってことなんだ。
「よくできてる」の言葉には続きがある。
「よくできてる。でもつまらない」
なのだ。
「よくできてる。でも夢中にはなれない」
なのだ。
「よくできてる。夢中だったよ」はないのだ。
あなたは、
その物語に夢中になってもらいたいのか?
そのことばかり考えて、
何日も何日も、その世界にいることを想像してしまうくらいの、
衝撃と影響を与えているのだろうか?
心を奪い、
一生消えないほどの満足を与えたのか?
そうなっていないもので、
出来の悪いものは「出来が悪い」といわれ、
整ってはいるが面白くないものは、
「よくできてる」といわれるのだ。
もっと具体的な感想を引きだそう。
どうでもいいやつほど、
「よくできてる」と、抽象的な感想になるよ。
2024年06月21日
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