2024年06月21日

「よくできてる」はほめ言葉ではない

よくある批評のひとつに、
「よくできてる」がある。
これを言われたら、
良かった、よくできてるんだ!と思ってはいけない。

これはどちらかというと、ほめではなく、批判である。


よくできてる、
という時、分析的な理性が働いている状態だ。
それはつまり、
「夢中になれなかった」という告白に他ならない。

ほんとうに映画を楽しんでいたら、
「おもしろかった!」とか、
「わくわくした!」とか、
「感動した」とか、
「自分の人生に照らし合わせて、こんな経験があるとは」とか、
「驚いた」とか、
「大爆笑!」とか、
「こんな世界があったらなあ、と思った」とか、
「よかった!」とか、
とにかく、
「心が動いた」感想が出てくるはずだ。

なぜなら、
映画とは、美しい構造の披露の場ではなく、
エンターテイメントだからだ。

だから、その娯楽に夢中になったかどうか、
ということが本当の基準だ。
時間を忘れて、夢中になって、
明日の仕事を忘れてた、どうしてくれる、
というクレームこそが、
最高の絶賛である。


あなたは心を奪わなければならない。
なのに、
その心の外の理性で、
「よくできてる」なんて言われるということは、
相手に考える余地を与えてしまった、
という失敗なのだ。

「好き!どうしようもなく好き!」ではなく、
「年収がいくらで、将来性はこれ」などのように、
値踏みされているということだ。


たしかに、批評家は、
映画に夢中になるような感情と、
分析する理性とを、
両方働かせながら映画を見るものだから、
理性が勝って分析に走り、
よくできてる、構造や構成はとてもよい、
などと出来るわけ。

でも、
理性で分析する仕事を批評家にさせず、
「仕事を忘れて夢中になってしまった!
批評家失格だ!」
と後悔させるほどに夢中にさせていない、
ということなのだ。

「なんだか分からないが、異様なパワーを感じた。
俺はこれを批評する言語を持っていない」
などといわせるほうが、
「よくできてる」といわれるより、
よっぽどよいわけ。

つまり、
「よくできてる」なんて言われるってことは、
舐められてるんだよ。

相手に考える余地を与え、
分析させる時間を与え、
それだけの時間、
相手は退屈してるってことなんだ。


「よくできてる」の言葉には続きがある。
「よくできてる。でもつまらない」
なのだ。

「よくできてる。でも夢中にはなれない」
なのだ。

「よくできてる。夢中だったよ」はないのだ。



あなたは、
その物語に夢中になってもらいたいのか?
そのことばかり考えて、
何日も何日も、その世界にいることを想像してしまうくらいの、
衝撃と影響を与えているのだろうか?
心を奪い、
一生消えないほどの満足を与えたのか?


そうなっていないもので、
出来の悪いものは「出来が悪い」といわれ、
整ってはいるが面白くないものは、
「よくできてる」といわれるのだ。


もっと具体的な感想を引きだそう。
どうでもいいやつほど、
「よくできてる」と、抽象的な感想になるよ。
posted by おおおかとしひこ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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