批評は、点で行われない。
必ず線で行われる。
それは、批評の本質は比較だからだ。
分析でも勉強でもよい。
比較しないと、批評したことにならない、
と僕は思う。
なぜなら、
絶対的な物語というのはないからだ。
ある物語のあの場面より出来がいいとか、
あれよりは劣るとか、
そういうことが批評の本質だ。
他人の作品との比較もそうだし、
「前の作品より悪化した」などのように、
自分作品との比較文脈でも批評が行われる。
「日本映画としては破格の出来」という、
日本という枠内での比較もあれば、
「チャップリンを超える逸材」などのように、
オールタイムの枠内での比較もあろう。
もちろん、映画だけでなく、
アメリカの漫画よりも断然よいとか、
ブロードウェイミュージカルを超えていないとか、
小説ほどじゃなかったとか、
色々な物語メディアでの比較がある。
そして、
「今まで見たすべての物語と比べて」、
最高とかまあまあとか、クソとか決まる。
つまりは、
評価や批評は、
相対的な比較の末に、
第何位か決まる行為のことである。
もちろん、全体評価もあるし、
部分評価もあるだろう。
似たシーンはあるが、
その中でもこれは傑出しているとか、
単なるパクり精神やんけ、とかが批評される。
要素的に分解して、
キャラクターが上手とか、
構成がうまいとかは、
「平均的なものと比較して」ということだ。
だから、批評をするときには、
詳しくなくてはならない。
比較対象が貧弱では、
妥当な批評ではないからだ。
優秀な批評家ならば、
古今東西の名作を把握していて、
「〇〇の〇〇よりはよい(悪い)」と、
適格に立ち位置を同定できるだろう。
つまり批評とは、博物学だ。
あるものがどこに分類されるかを競うわけだ。
もちろん、案件として批評を受けている人は別ね。
どうせ忖度しかしないからね。
他人と比較しよう。
過去作品と比較しよう。
話はそれからだ。
あなたの作品は、何と比べてどうなんだ?
名作に負けているならば、
新作を作る意味なんかないぞ。
あるいは、
他の作家の新人時代と比べてどう、
でもいいよ。
レベルを上げていくんだ。
この作品以降、これ以下にぬるいことをやるとバカにされる、
という基準点になるようなものをつくるのだ。
そしてそのジャンルで最高峰になるべきだ。
2024年06月27日
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