2024年07月01日

「所詮〇〇やんけ」をどう突破するか

絶対的な客観目線に立つと、
「所詮〇〇は〇〇に過ぎない」と思ってしまうことがある。

「所詮ロッキーはチンピラが負けただけの話」
などのように。
それをどうかわすか、が作品性だと思う。


ロッキーが、所詮チンピラが負けただけの話でないことは、
それを見たことのある人ならば誰でも分かるだろう。
それは、彼に感情移入しているからだ。

さえないチンピラの日常を知っているし、
指を折ってこい、という上の指示に素直に従えないやさしさがある
(save the cat)し、
ペットショップの不細工を口説いてるし、
貧乏でスケート場にいっても自分はふつうの靴だし、
終り際に「一周だけ」やって、「楽しいか?」
って言ってるし。

でもチャンスが巡ってきて、
全盛期を自慢するトレーナーに、
「俺には全盛期なんてなかった」と叫ぶさまは、
俺たちの感情を揺さぶる何かがある。

だから、
負けたとしても最後までたち続ける、
その根性にみんな感動するわけだ。
誰もが、本当に勝ったのはお前だぞ、
という試合だからこそ、
ロッキーの「勝利」は永遠に残るのだ。

そんな風に、
「所詮は〇〇やんけ」と客観的に小さく見たときに、
どのように反論できるかが、
その作品の作品性である、
などといえるのかもしれない。

所詮勧善懲悪は悪人が死ぬだけやんけ。
所詮ラブストーリーは異性をゲットするだけやんけ。
所詮ミステリーは犯人を見つけるだけやんけ。

そんな風に矮小化してみたときに、
どう反論できるか?
は試してみるとよい。

所詮AVはセックスしてるだけやんけ、
はちょっと言えそうだよね。
ぶっちゃけただの刺激集だからね。

だが映画は、そうではないと言えるかな?
そのディテールが、
その映画を「作品たらしめているもの」だと思うわけさ。

あなたの映画は、
所詮〇〇と、何が違う?
新しいテーマなのかな?
新しいモチーフなのかな?
それとも、
テーマとモチーフの組み合わせが斬新なのかな?

ロッキーの例のように、
うまく反論できるかな?
どこに感動したり、
どこに感情移入したり、
どこで夢中になったり、
するのかな?


物語とは、
客観的に見れば、所詮〇〇に過ぎない出来事を、
その人の目線から見たら、
ものすごいことである、
特別なことである、
二度とないなにかである、
などのように描くものなのかもしれない。

客観的に見ればただのセックスかもしれないが、
それが「初体験」という文脈であれば、
ものすごい出来事になるものだ。
一生忘れられない特別なものになるよね。
そういう感じ。

とくに、一人称小説に、
その傾向は強いと思う。
一人称だとなんでも増幅できるからね。
傍目から見れば、
単に何かを横に動かしただけなのに、
本人からしたら、
天地をひっくり返す出来事のように見えているものを、
本人目線から描くのが、一人称小説、
といってもいいのかもしれない。

映画ではこの手が使えない。

カメラで撮るものしか撮れないから、
所詮それだけやんけ、
というしょぼいものを撮ったら、
すごくないからだ。

ある程度すごいものを撮る
(ロッキーで言えば激しい試合)ことで、
それはすごいのだ、
と客観的にも言える中で、
一人称的にすごいことをやることが、
映画的な物語の在り方だろう。

その、撮るべきすごいものを、
コンセプトなどという。


つまり、映画は客観的にすごいもので、
「所詮〇〇やんけ」をかわしつつ、
主観的な一人称的な何かを描くことである、
などのようにまとめることが出来ると思う。


近年の日本映画は予算不足で、
この客観的なすごいものを用意できていない。
「人気芸能人」を客寄せパンダにしてきたが、
見世物としての魅力がだんだん失せてきているのは、
カメラで撮ってすごいものを、
用意できなくなっているからかもしれないね。

黒澤のころはたくさん用意できたのにねえ。



「所詮〇〇に過ぎない」ものを、
どれだけ価値あるものに出来るのか?
それこそが、
シナリオのするべき仕事だと思う。
posted by おおおかとしひこ at 01:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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