2024年07月02日

ひと段落したあとに、谷が来る

シークエンスや幕を書いたあと、
すぐに次のシーンは書けない。
そのまま勢いで書き始めても、たいてい挫折する。
それは、次にやるべきことをまとめていないからだ。


書くことは逆算である。
体験のように書いていても、
まるで初めてのように書いていても、
すべてはスケジュールからの逆算だ。
起こることはすでにわかっていて、それを初めてのように書くのだ。
その調子を崩すのが、
ブロック終わって、何か別のことが始まるときだ。

それまでは怒涛のように書けるから、
ついついそのペースで書けるのではないかと勘違いする。
だけど、
書くペースは極端に落ちる。
何を書けばいいか、明確になっていないからだ。

なぜかというと、まだ準備が整っていないうちに、
書き始めたからじゃないだろうか?


これから起こるべきことが全部わかっていて、
それをうまく伏線を張りながら、
整理しながら、
しかも引き込みながら、初めてのように書くことに対して、
準備が足りていないからではないだろうか?

もちろん、準備せずに書いて、
ライブ感があるように書くことは出来る。

でも出来て3シーンから5シーンくらいじゃない?
それを過ぎると、極端にライブ感が減って来ると思う。
アッパーがダウナーになり、
色気がなくなって、乾いてしまう感じがある。
ストーリーが急速に魅力を失い、
なんでこれをやっているのか、分らなくなってしまう。

それを防ぐために、
これまでとまったく違う話を始めて、
多少おもしろくなるのだが、
やはり勢いがなくなる、
なんてことはまれに良くある。

これは、次を準備していないはじめの部分、
だからだと思うわけ。

もしきちんと準備が出来ているならば、
アレとアレの伏線を張りながら、
まるで初めてのようにこれを書くぞ、
という風に、
準備万端になっているはずだ。
あとは書くだけ、みたいな。

そうなっていなくて、まあ大体こんな感じだろ、
次に起こることは自分でも分かっていない、
となっているから、
アドリブで書いたはいいが、詰まって、勢いがなくなって、
何もならないのではないだろうか。

あるシークエンスの後半はかなり書きやすい。
これまで書いてきたことが収束して、
これまでの伏線を利用できるからね。


ストーリーというのは、シークエンスの繰り返しだ。
何かが始まって、何かが終わり、
終わりきらず次へ行く。
その谷間、シークエンスとシークエンスの間で、
詰まりが起こりやすい、
ということを言っている。

原因は明らかで、
これからのシークエンスで何を書くべきか、
用意周到ではないからだ。


対策は、
次のシークエンスに名前をつけるのだ。
「〇〇へ行く」とか、「目指せ〇〇」とか、
「〇〇の真実」とか。

それの終わりはどうなるか想像して、
それに逆算して面白くなるにはどうしたらいいかを考えればよい。
尻から頭まで通しで大体できたときに、
頭の入り方が分ると思う。

逆に、尻が分らないと、頭の入り方なんて一生わからないと言ってもよい。
もっとも適切な入り方とは逆算だからね。

ということは、入り方とはパズルの正解のようなものだ。
それに辿り着いていなくて、
前のシークエンスの余韻だけで書いているから、
入口を間違えて、
次のシークエンスが始まらない、
と考えるとよいのではないか。

それは、とても細かいレベルで起こる。
30ページ先のことではなくて、
10ページ先、5ページ先、3ページ先すら、
見えていないことが多い。
勢いで数シーン書いてしまう、という現実が、
数ページ先を見据えていない証拠だよね。



詰まっているのは何が詰っているのか?
見通しだ。

これから何が起こるのか、プロットを見て整理しよう。
これから書くシークエンスは、何があればゴールなのか、
小さな名前をつけて管理すると、
小さなゴールが見えやすいかもしれない。


書けなくなることは、もっともよくあることだ。
あとから見ると、
小さなゴールが見えていなかったなあ、ということが良くある。
そういう反省のもとにこれを書いた。
posted by おおおかとしひこ at 07:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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