2024年06月24日

主人公は作者とは別人

と、常々僕は言っている。
そうでないと客観的になることは難しいと。
自分と同一人物ではないということは、
自分にない魅力や能力があるということ。
だから自分にはできないことを成しえたりできるということ。

逆にいうと、
自分にはない、欠点や嫌いな所があるべきだろう。


他人ということはそういうことだ。
自分ではない。
すべてを愛しているわけではない。
ある長所を愛することはあるだろうが、
ある短所もあって、
それは嫌いということもある。
他人というのはそういうものだ。
そのトータルでプラスかマイナスか決まるわけだ。

理屈でいえばそうなるのだが、
なかなかそこまで「他人」を意識したことはないのではないだろうか?
だとすれば、
やってみる価値がある。

わざと自分の嫌いな欠点を、
ひとつ作ってみなさい。

簡単な例でいうと、
ドラえもんの「ネズミが嫌い」というやつがある。
あそこまで忌み嫌う人はあんまりいない?
どうだろう。
実際にドブネズミを渋谷とかで見るとびっくりする。
あれは嫌うよなあとは思うが、
ドラえもんのように飛び上がってパニックになったりはしないとしよう。

そのときに、
ネズミの出現を意図的に仕込めるというわけだよ。
自分が嫌いじゃないならね。

作者が嫌いなものだと、忌避してしまうものだから、
それを生かしたストーリーなどつくれない。
しかし自分とは関係ないものだと、
冷静に突き放して考えられるわけ。

ドラえもんほどネズミが嫌いでなければ、
冷静にそれを挿入する場面を創作できるし、
タイミングよくその場面を持ってこれるし、
それでギャグをつくることが出来るだろう。
自分にとってのGのようなものか、
と考えれば、
相対的にいろいろ出来るに違いない。

あるいは、
まったく恐れずに、
「それを克服するストーリー」すら作れるよね。
自分と同じ欠点を持ってたら、
そんなことは出来まい。
いつまでたっても克服は出来ないだろう。

それとは違う欠点だから、
自分にないものだから、
冷静に「これは克服可能である」と考えることが出来るわけだね。

このことによって、
より突き放して、主人公を見れるわけだな。


主人公が好きな人や嫌いな人は、
作者の好みの人や嫌いな人である必要はない。
主人公の行動パターンも、
作者と同じでなくてよい。

だから、冷静に違う人のストーリーとして書けるのだ。


大体、
「描いていないところは作者と同じ」と考えてしまう癖があるものだ。
デフォは自分と同じとね。
自分がラーメン好きだったら、
「あんな脂っこいのはいや」という主人公を考えればいいんだよ。
自分が犬好きだったら、
「犬嫌いの猫派」の主人公にしとけばいいのさ。
ロックが好きならクラシック好きでいいじゃないか。

そういう、
自分と違うポイントをいくつも作れば作るほど、
好きになれない部分や生理的に違うポイントだって、
作るべきだということだ。

そうすることによって、
冷静に他人だと思えるようになり、
自己同一化を避けることが出来るだろう。


作者が主人公と同じになってしまう誤謬は、
作品にとってよくないことだらけだ。
「取りつかれるように書ける」というメリットはあれど、
たいてい客観性が保てず主観的になってしまうことや、
冷静さを欠くことや、
ご都合主義やメアリースーに陥ることが、
かなりのデメリットであろう。

もしどうしてもそういう癖が抜けないならば、
「嫌いなポイントもある主人公」というタイプに、
一度挑戦してみてはどうだろう。

主人公との距離の取り方を、
ひとつ学べると思う。
posted by おおおかとしひこ at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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