晴れる、曇るがあるくせに、雨るという動詞がないのはなんでやろ、
というツイート。
https://x.com/katsunomisanzai/status/1795120923189600668
そもそも、晴れ、曇り、雨という三つのカテゴリに気象庁が押し込めたから、
じゃね?
雨や風はもっと豊かにあるぞ。
雨る、といえないほど、
日本には雨の種類が多い。
小雨、パラつく雨、お湿り、大雨、土砂降り、豪雨、
五月雨、驟雨、氷雨、天気雨。
なぜかというと、
雨が生活に直結していたからだ。
平安前後までは土木が安定してないから、
大雨は即洪水で家が流される危険があったろう。
川の軌跡は年に何回も変わったはずだ。
雨る、ではその大雨なのか、
まあちょっと濡れるレベルなのかわからない。
だから、
「雨といってもどの雨なのか?」
を指す言葉が豊富にあった。
農耕が安定してからは、
雨は生活に直結する。
日照りと雨は対になり、どちらが欠けても成立しない。
降り過ぎの雨は田んぼが流されるし、
降らなきゃ米は枯れる。井戸も出なくなる。
だから、雨るでは雑な粒度だと思う。
どの程度の雨なのかが問題だ。
そもそも気象庁の天気予報は、
農家にとって大事な情報である。
「曇り」の定義は雲が3割以上の時。
僕らは撮影の仕事をしてるから、
3割は「晴れたり曇ったり」という認識だけど、
農家にとっては3割の雲は曇りである。
なぜなら、日照時間が関係するからだ。
こういうわけで、
現代の都会の基準の、
傘がいるかいらないか、という二択での、
晴れ←→雨という対立概念は、
ごく最近のものなのではないか?
現代の都会では、洪水で死んだり渇水で死ぬことはない。
その心配をするよりも、靴や服が濡れるかどうかしか心配しない。
だからこれは問いがおかしくて、
「晴れる、曇るがあるのに雨るがないのはなぜか?」
という前提の、
「晴れと雨が対立概念で、曇りは中間」
というならび概念が変なのだ。
もっと多彩な概念を、
たかだか3つに押し込めているものを、
3つで比較するからおかしなことになるのだ。
そういえば、晴れだって、
五月晴れやピーカンや、晴れたり曇ったりなどの、
たくさんの語彙があろう。
曇りだって、
どんよりとした曇りとか、黒雲とか、薄曇りとか、
雲の隙間から日差しが、
などのようにたくさんの語彙があろう。
晴れやかはあるが、曇りやかはない。
しめやかはある。
そもそも対概念ですらないのかもしれない。
まあ、人工言語でないかぎり、
対概念が対の活用をするわけでもなかろう。
だから、
自然発生的にできた自然言語は不規則変化をする。
それだけのことだと思われる。
ということで、
天気はもっとたくさんの語彙がある。
フィンランドには雪の白さを示す言葉が100あるという。
日本人は知らない人同士でも天気の話ができる。
晴れる、曇るの天気の話しかできないわけではあるまい。
つまり、
問いの前提が、粒度の低い日本語なのだな。
日本語はもっと細かいところで使われる言語だ。
高々気象庁に天気を支配されてはならぬ。
デジタル的な思考が、アナログ的思考を理解できない現象のひとつか。
(とはいえ、四季が二期にデジタル的になってる心配はあるよな)
2024年05月29日
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