我々は妄想を現実にする。
しかし現実には妄想と異なる何かがある。
だから妄想はリアリティのない妄想に過ぎないのだ。
それを知るための良い例を見つけたので貼っておく。
御徒町から遊舎工房へ向かう途中に、
このような看板があった。
オッ、透明でかっこええやんけ、
まるで字幕が浮いてるみたいで面白いな、
と思って近づいたら、
妄想と現実の差を知ることになる。
【妄想】
空中に字幕が浮いてる感じになって、
かっこいいだろうなあ……
【現実】
・アクリルの反射が邪魔でよく見えない
(写真では自転車が通っている。それがチラチラして字を読むのはわりと困難)
・傷が入ってそれが光って邪魔
(写真ではわかりにくいが、自分が動くと傷に光が反射して邪魔になる)
・鳩のフンがかかって汚い
これが妄想と現実の差だ。
つまり、
妄想をした時点で、
反射がある、傷がつく、
自分が動くと反射が動く、
鳩のフンが上からかかり、誰も掃除しない、
などというリアリティが想像できていないんだね。
いつもこの時にエアセックス選手権童貞部門の話をするが、
もう飽きたので省略する。
頭の中で妄想したことを現実化したときに、
思いもよらない現実の要素に、
足をすくわれることがある、
ということは覚えておくとよい。
それを妄想に終わらせず、
現実に置いたときにどう見えるのか、
どうやったら想像できるだろうか?
僕は、人通りの多い町へ出ろ、
ということを推奨する。
駅前でも公園でもいいから、
部屋にいないで外へ出て、
現実の中で妄想してみろ、
ということを。
寺山修司風にいえば、
書を捨てよ町へ出ようということだ。
部屋の中の理想的な空間にいないで、
外へ出たらそもそも何があるんだっけ?
ということに気づくべきである。
部屋の中でつくった精密なプラモは、
埃をかぶるし、濡れるし、風が吹くし、
持ち運びの際に壊れるし、
犬にしょんべんをかけられるし、
子供に口に入れられるだろう。
長時間置いといたら、カビも生えるに違いない。
自重でつぶれてくるかもしれない。
部屋の中の、エアコンの効いた空間は、
リアルな空間ではないのだ。
リアルな空間とは、
自分と作品だけの純粋な空間ではなく、
自分と考えの違う他人たちが、ものたちが、
それぞれの都合で動いている空間に過ぎないのだ。
その中に自分の妄想を持っていって、
なお機能するものをつくらなければならない。
所詮妄想は現実に負けてしまう。
現実を想像しきれなかった妄想は、
現実の前に敗北してゆく。
リアリティを持てなかった透明の看板は、
うまく受肉できずにそのうち消えてゆくだろう。
だけど、
時々妄想力の強い創作者がいる。
現実にはあり得ないのだが、
その妄想力だけで強引に突破する人が。
車田正美やゆでたまごなどはそうだろう。
「無茶な」「あり得ない」といわれつつも、
いつの間にかその妄想の世界に引きずられるようになってゆく。
僕は、創作とはそうあるべきだと思っている。
現実に反射や鳩のフンがあったとしても、
なお「透明な看板」というコンセプトがおもしろければ、
道理が引っ込むんだけどね。
そんなにはこのコンセプトは面白くなかったということだ。
リアリティに負ける程度の妄想だったということさ。
2024年05月29日
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