2024年05月30日

いつのまにか一人称になってしまった広告

もうずっとTVを見てないのだが、
今日電車帰りに金麦の駅貼りを初めて見て、
不思議な気持ちになった。

一人称なんだよな、「帰れば金麦」って。


文面は覚えてないけど、
「今日も生き残った、
それだけでえらいのだ。
帰れば金麦」
的なポスターだったと思う。

この「帰れば金麦」というのは、
ずっとやってたのかもしれないが、
何せ我が家ではもはやTVがないので、
初めてこれを見てびっくりしたのだ。

かつて金麦といえば檀れいが、
「待ってるから早く帰ってきて、
金麦のも。今日もお疲れ様でした」と、
夫婦の関係(の妄想)を描いたものだった。

人間は一人ではなく、
関係のあるネットワークの中にいるのが当然で、
孤立したとしても、
群れの中に帰りたい欲望があり、
それを檀れいが救っていた。

コロナでその関係性が分断して、
それはまだ回復していないのだな。

検索して、
現在のCMに辿り着く。

独り言だ。一人称だ。
一人暮らしの自己満足だ。

閉じている。

他の人との関係性を描いていない、
一人の世界である。


ああ、コロナから、世界はまだ帰ってきていない。


まあ、これじゃ少子化も当然よね。
広告が悪いのではない。
広告は時代の気分とシンクロしてるだけだ。
単なる鏡だからね。


これが、一人称が終わり、
誰かと誰かの間にビールが帰ってくるのは、
いつの日になろうか。
その頃まで日本人は維持できるのだろうか。

終末の世界に、
たった一人で暮らす、
人類最後の人間みたいな、
そんなものを妄想する。



物語とは、
人と人の関係を描くものである。
一人称形であろうが、
三人称形であろうが、
一人だけの世界の終末を描くことはない。
(アイアムアヒーローの終盤はそうなって、
ものすごく詰まらなかったが)

檀れいが待ってる妄想の方が、
豊かな世界というものだ。


追記)
これ、「家に帰ったら生ハムの原木あるしな」
のネットミームのパクリやん、
ということに気づいた。
後追いやんけ。
いつから広告は船の舳先でなくなったのだ?
posted by おおおかとしひこ at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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