という表現ですべてがわかる。
間に立つ者たちは、
原作者を「難しい作家」だと表現している。
これは、「自分たちの意図に沿わない、
頑として言うことを聞かない自己の権利を主張する作家」
のような意味合いだけど、
言うこと聞く/聞かないという、
俺に従え/従わないという問題の裏にある、
もっと深刻な問題が透けて見える。
間に立つ者にとって、
原作者の言っていることが、難しくて理解できてないんだと思う。
たとえば、
間に立つ者が小学校算数しか理解してない時に、
原作者が大学数学の議論をしたら、
「難しい人」と思われるだろう。
だけど、原作を作り上げるには、
それほど難しいことを理解し、実践しないとできなかったのだ。
そのレベルに達していない者が、
原作を作り上げる難しさを理解し、
それをドラマスタイルに上手に改変するだけの、
実力を持っていなかったことは、
この「難しい」発言一発で理解できる。
もし同等レベルに達していれば、
「原作者の言うことは○○で○○ということだが、
ドラマ文法に照らせば○○で○○となるよね?」
というような議論ができたはずだが、
そうではなく、
ただただ原作者のいうことが「難しい」と、
理解を拒否されたのだ。
間に立つ者がバカだ、
というのは簡単だ。
問題は、そのことを恥じてないことと、
バカがそれを学ぶ場がなく、
バカでも原作者レベルに到達するほどの、
理論がつくられていないことにある。
僕が1万記事も脚本論を書いているのは、
もちろん脚本家をめざしたり、
ストーリー作りを目指す人たちを応援したいということもあるけれど、
世間の、
「ストーリーとは何か」の啓蒙をしたい、
という動機もある。
少なくとも彼らはここを読んでないし、
ここを読んでる業界関係者はいないだろう。
それでも僕は書き続ける。
バカを賢くしてやるんだ。
少なくとも、
バカはバカを恥じたほうがいい。
そして、
「ごめんなさい、バカだと間で情報が抜け落ちるので、
天才同士で難しい話してもらっていいですか?」と、
原作者(難しい人)、脚本家(難しい人)、
プロデューサー(バカかも知れない)、出版社担当(バカかも知れない)を、
全員合わせて脚本打ち合わせをするべきだ。
バカが間に立つせいで、難しい部分が抜け落ちる。
そしてその難しい部分こそ、
作品のオリジナリティであり、
決して真似できぬクリエイティビティであり、
原作ファンが愛しているところである。
それを上手に翻訳する能力がないなら、
せめて忠実に再現することを考えるべきで、
劣化コピーすることを考えるべきではない。
そういえば、
角川映画関係者は、西原理恵子原作の理解が、
とても低かったことを思い出して腹が立っている。
そのことでずいぶん揉めて、
僕は「難しい監督」と思われたのだと思うと、
二重に腹が立ってくる。
国語の読解力、作文力はとても大事だ。
しかし義務教育では、
クリエイティビティをどう扱うかの授業はない。
レポートを正しく書けるか、
読み取れるかが中心になっている。
「芸術」という枠があるかどうかは知らないが、
「改変」「翻訳」という授業を、
僕が担当してもいいくらいだ。
理解を、水道管のパイプの太さにたとえる。
今件では、
間に立つ者のパイプが細すぎて、
原作者からやってくる大量の水量を受け止めきれず、
チョロチョロとしか受け渡せなかった。
ネットワークにおけるボトルネックになったのだ。
彼らから見たら、
自分たちのキャパを超えた水量は、
「難しい」となったのだ。
そもそも脚本は難しいか?
物語をつくることは大変難しい。
だからこそ、
僕は脚本添削スペシャルなどを実践して、
難しさを平易さに変えようと、
難しさのベールを剥がそうと努力している。
読んでくれ。脚本添削スペシャル2014-2024
それでも難しいと思うなら、
クリエイティビティの難しさを扱える器量ではないと、
恥じるべきだ。
恥じた上で、どう行動するべきか、考えて欲しい。
僕はバカをバカにしない。
バカを自覚して立ち回れる人は尊敬するし、
大切な仲間だと思う。
彼ないし彼女がいなければ前に進まなかったわけで、
それは感謝であり回転である。
バカの自覚がなく、理解できないものを排除する者を、唾棄するだけだ。
2024年06月01日
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