2024年06月01日

なぜ設定書を書くのか

Twitterから。重要なので全文引用。

> 取材で聞いた話だが、Netflixの場合、制作開始時に「このキャラはこういう人でこういう原理で動く」「作品の重要な点はどこなのか」という、作品の中で守るべき指針をまとめた、俗にストーリーバイブルと呼ばれるものを作る。で、原作ものもそれに沿って実制作が進む。

毎回成功しているかは別の話だし、「制作に時間とコストがかかる」という欠点はあるのだけれど、「原作ものを扱う」というのはそういうことなのだろうなあ、とは考える。

まあでもフランチャイズ化していくと、原作よりフランチャイズ維持の事情が大きくなって行ったりはするわけだが。

(引用ここまで)
これは幽遊白書の実写化の際の話だそう。
僕は未見だけど、
話を聞く限り原作に忠実な感覚だったそうな。
それが傑作かどうかについては議論の余地がありそうだけど。

で、
なぜこのような「設定書」をつくるのか、
改めて確認したい。


それは、
ドラマのような長い作品は、
「複数のライターで書くから」だ。
第n〜m話はAさんが、
第p〜q話はBさんが書く、
なんてことが普通にある。

あなたがそのライター陣に加わることを想像して欲しい。

各キャラクターの細かいところまで、
他のライターと「解釈一致」だろうか?

二次創作の世界では、
原作と解釈一致かどうかは、
かなりバラバラである。
「私のこのキャラの解釈はこのようである」
「○○さんの解釈、好み…」
ということが普通にある。
それは、バラバラということが前提であり、
二次創作とはあくまで原作のパラレルワールドを楽しむのだ、
という大人の娯楽であることがわかる。

だけど、ドラマの脚本というのは、
パラレルワールドでは困る。
第一話から最終回まで、
「ひとつの世界」が続かなければならない。

「○○さんなりの解釈」をやられては困る。

もちろん、ちょっとしたお遊びシーンなら、
豊かになってより良くなるかも知れない。
しかし、根本的なところで、
複数のライターによる解釈の揺れがあったら、
作品は矛盾だらけになる。

これを防ぐために設定書がある。

これは、
原作ありだろうがなしだろうが機能する。

設定書がなければ、
複数のライターや、
それをさばくプロデューサー、
俳優、監督(ドラマの場合監督も複数いる)、
などに解釈違いが生じるたびに、
長い議論をする必要がある。
そして「私はこう思っている」ことを曲げることを嫌がるので、
これは喧嘩の温床になる。

「神の言葉」の解釈違いで、
いまだにユダヤ教とキリスト教とイスラム教が争っているところや、
二次創作の解釈違いがパラレルという共存に落ち着いているのも、
解釈一致に至ることは稀であることがわかる。

だから、
先に「ひとつの解釈」をつくり、
この仕事ではこれを逸脱することなかれ、
という聖典をつくることは、
のちの揉め事を避けるための合理である。



一人で書き切る場合は、
この限りではない。

むしろ設定書をいい加減にしておいたほうが、
ガチガチな硬めを避けられて、
閃きを活かしやすくなる。
設定は都度上書きされて、
よりよく改良される。

つまり、改良の余地を残すために、
僕は設定書を詳細につくるべきではないと考えている。

逆に、聖典とは、
「余計な閃きをなくし、
ガチガチに進行させるもの」
だといえよう。

複数のライターの複数の現場で、
そのような花火を起こすべきではない。
すべては計算ずくでなければ、
矛盾しない統一世界をつくることはできないからだ。

また、この複数のライターの手綱を握るのは、
プロデューサーの仕事である。
すべての脚本打ち合わせに出るのは、
プロデューサーただ一人だからだ。
プロデューサーがバカだとよれるのは、
聖典の解釈力という基本的な力が足りない時である。


さて、
ドラマ「セクシー田中さん」には、
そのような設定書がなかったらしい。
キャラクターの改変ぶりを疑問視した原作者が、
「キャラ表をみせて」と言ったら、
「そんなものはない」となったそうだ。

つまり、
わざと改変できる余地を残しながら、
作られて行ったことがわかる。

もしこれがオリジナル脚本であり、
一人のライターによってつくられたものならば、
それもよかろう。

だけどことは共同作業(少なくとも脚本家と原作者の)だ。

そこを合意しないでどうするつもりだったのか、
改めてプロデューサーの責任は大きい。



さて、
あなたはストーリーを書くときに、
詳細な設定など作ってやしないだろうな?

共同作業ならばブレないために必要なので作りたまえ。
しかし一人でやり切るなら、
そんなものを作らないことをお勧めする。

ノートを綺麗に取ることに注力しすぎて、
応用問題ができないバカと同じだ。

設定書をつくることで力が尽きて、
その後の「面白いストーリー」まで到達せずに、
終わってしまうだろうからだ。

むしろ、作りながら閃き、閃きながら足してゆくべきだ。
そうして最後に矛盾を取り除き、
一つの完結した世界に作り直すべきである。
一人で作るものは、そのように可塑性がある。


逆に、複数の共同作業では、
各自の閃きを許してはならないわけ。
バラバラに可塑されても困るからね。



設定書を何のためにつくるのか、
分かっていない人のために書いた。

少なくともセクシー田中さんのチーフプロデューサー、
三上絵里子は分かってない。

この人、日本映画テレビプロデューサー協会の理事なんだって?
おろせよ、みっともない。
posted by おおおかとしひこ at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック