セクシー田中さんをめぐって色々な説が入り乱れているが、
この、各立場の目的が異なることで、
結果作品がめちゃくちゃになる、
と整理されていた表がわかりやすかったので、
引用する。
元ツイートはhttps://x.com/takaiyone/status/1797088795567026574
コンフリクトとは、
集団に起こる現象で、
各々の目的が異なり、
それぞれの目的を遂行する上で衝突が起こること、
であった。
呉越同舟とか、船頭多くして船山にのぼるとかは、
このことを昔から言ってたわけだ。
だから、
原作通りには実写化されない。
アニメに幸せなものがある論は、
大抵スタッフが原作を大事にして、
なんなら補完してさらに高みを目指そうとするからだ。
なので、
良い補完は愛され、
作品は評価される。
この、幸せなもののとき、
全クルーが同じ方向を向いているといえる。
ところが、
コンフリクトが起こっているときは、
全クルーが同じ方向を向いていない。
だから内部で衝突が起こり、
交渉と妥協が起こり、
第三の着地点を見出すどころか、
「痛み分け」を選択して、
不満ばかりが残り、
感情的汚点を残して、
そして痛み分けなので出来が悪く、
あちこちパッチになり、
海を目指した船出は、山に登る結果となる。
手綱を引くのはプロデューサーの役目だが、
船頭が多すぎるのだろう。
そこで強権を発揮しなければ、
全てはまとまらない。
このとき、プロデューサーに読解力がなく、
作品の理解の解像度が低ければ、
作品は作品として完成しないだろう。
強く出られず、
調整型(誰にも嫌われたくない八方美人)ならば、
山に登ることはあきらかだ。
映画の場合、
監督が強権を持つこともある。
監督自身で脚本を書いている場合が多い。
手前味噌だが、
ドラマ「風魔の小次郎」は、
最も成功した実写化のひとつだと胸を張るけど、
メイン監督であり、
メイン脚本である僕が、
強権をもった。
原作を重視して、
原作をよりよく見せられないものは、
すべて切った。
水面下では恨みを買ったろう。
だから製作委員会からは、二度と呼ばれていない。
「難しい人」だと思われたはずだ。
だってその後誰からも声がかからなかったしね。
制作会社は倒産したし。
それでも、
作品としての評価はとても高いから、
僕はそれで仕事をしたと思っている。
このような頑固職人が強権を発揮して、
違うものは違うと捨ててノイズを入れず、
良いものはさらに伸ばす方針を取り、
妥協をしない限り、
作品はすぐに山に登る。
極端な例は、東京オリンピックの開会式だ。
あのカオスは、
あらゆる目的の違うものの同居を、
作品として一つに練り上げられなかったことの象徴だ。
作品としてはいらないものがあったが、
すでに頼んだものを断ると、
角が立つから入れざるを得なかったわけ。
せっかく色々頼んだものを、
監督権限で首にするわけにはいかないと、
ああいうカオスになるわけさ。
幸せなアニメ、
幸せな実写化は、
スタッフ全員が同じ方向を向いている必要がある。
アニメの場合はまだお手本があるが、
実写の場合は選択肢が多すぎて、
しかも脚本段階じゃイメージしきれないから、
各パートがバラバラになることが多い。
風魔の場合、
スタッフが同じ方向を向けるようになったのは、
第一話が仕上がってから。
ああ、こういうことをしたいのだな、
と皆が作品を見て、
ようやく動き出してくれた。
それまでは、僕はただ「ちがう」「こうだ」と、
強引に事を進める我儘監督と見られていただろう。
もちろん予算が低く、
思ったものの数%しか出来てないけれど、
その中でベストを尽くして、予算内に収めたつもりだ。
(まあ市野さんはそれで予算を食われたかもしれない。
この場を借りて謝るしかない)
風魔ですらそうだ。
実写はそれだけ難しい。
だから、
スタッフを集めてテスト撮影する、
という習慣がハリウッドにはある。
イメージを統一するためのものだ。
もちろん、テスト代は実費だ。
だから、予算のない日本ではそんなことはできず、
だから新しい風は出てこず、
「これまでのアリモノの組み合わせ」
しかなくなる。
だって、
誰もが、風魔のHPやチラシを見て、
「ひどい、期待できない」という反応だったはずだ。
だけど第一話を見て、
「悪くないぞ」という反応にかわったはずだ。
それは、内部スタッフでもあったということだ。
コンフリクト、軋轢が絶対あったと思う。
すべてを黙らせるのは、
よし、これのために半年間命を捧げようと思わせるのは、
作品のクオリティしかないんだよね。
また手前味噌(失敗の方)だけど、
映画「いけちゃんとぼく」では、
そのコンフリクトの規模が大きすぎて、
「いいものをつくる」がまずできなかった。
それに関してはいつか本にしたい。
原因は、各スタッフの、
原作の理解度の粒度がかなり違った事だと、
今は思っている。
あと「映画とは何か」の認識に、
各自のズレがありすぎ、
上の図のように目的の差がありすぎたことが大きいね。
CGチームと音楽と、キャスト達だけだったな、
原作理解の粒度が高かったのは。
まだセクシー田中さんの報告書を読んでいないが、
僕の経験からすると、
プロデューサーと芸能事務所あたりが、
Aという感じのことをやりたくて
(若い女性が、会社モノで、
ちょっと変わった事をやる、みたいな枠組み)、
それは原作のやりたいことBを、
少し捻じ曲げたことで、
「BをAに改変すればドラマになるやろ」と、
原作を利用したことが、
大きなボタンの掛け違いだったのではないか、
と漏れ聞こえる空気から感じている。
原作サイドがそれに合意して、
「AにするためにBの素材使ってください!」
になればAに換骨奪胎したものが出来上がっただろう。
だけどBにしたい人は、
原作者一人で、だから「難しい人」扱いされたのだ。
そりゃ病むわ。小学館もドラマサイドの味方だし。
そうそう、角川映画のプロデューサーは、
セリフで揉めたとき、
原作通りのセリフにしたいと主張を曲げない僕と、
改悪したいと言ってるスタッフの喧嘩を仲裁して、
「ずっと喧嘩してきたんだから、
一回くらい折れてくださいよ、
それが大人のやり方ですよ。
そうじゃないとこの場が止まるでしょ」と、
僕を説得した。
そこで折れてしまったことを、僕はまだ後悔している。
つまりプロデューサーとは、
揉め事をへらすことで、作品の質をさげる仕事なんだな、
と、ダメなプロデューサーを見て感じた。
もし強権型のプロデューサーならば、
原作の理解度によって僕を支持するか、
Aに改変したいから○○だ、と決定するだろうね。
このようにして、
作品は各場面で傷物になり、
それは各各場面で増えていく。
「それでも成立させるものをつくるのが監督」
なんて事をのたまい、
最後に作品性の責任をおしつける。
だからそういうプロデューサーとは、
二度と仕事をしない。
だから僕は、
二年間で、
もっとも幸せな実写化と、
もっとも?不幸な実写化を、
両方経験した数少ない人だ。
そして、どちらの場合も「難しい脚本家/監督」と、
思われただろうと考えている。
というわけで、
コンフリクトを解消する手段は、
物語の上では、
どちらかが死ぬまで殺し合うか、
綱引きの均衡点を探す妥協のしあいか、
第三のさらに良い解決策を見出すアウフヘーベンしか、
ないのであった。
第三の解決策は、
原作の改変に触れることになるため、
大変難しい領域である。
原作理解度の粒度があり、強権がないとできない。
第一の選択肢はクビにすることだ。
ハリウッド映画では、
撮影が始まって一週間以内に、
誰かをクビにするといいという格言がある。
だけど日本の慣習では、
雇い主はプロデューサーであり監督ではない。
監督がクビにしすぎて仕事が回らなくなった歴史が、
あるのかもしれない。笑
というわけで、
第二の選択肢だけが、
現場に蔓延することになる。
喧嘩をさけてなあなあにする、
日本人の悪いところが出まくると、
こうなるわけさ。
今の実写化の問題点は、
つまりはこのようなことだ。
議論の練習もしていない。
議論せずに交渉(喧嘩を避ける痛み分けの綱引き)しかしない。
読解力が低く原作の理解度が低い。
このようなことで、
東京五輪開会式のような、
クソみたいな作品が多産されてきた。
まあ、日本の景気が落ちてきて、
ゴミを量産する体力もなくなってきた。
これからどうなるかはわからない。
だけど、
問題は国語力や議論力だから、
一年二年では解決するまい。
だから、さっさと成功して、
権力を持つのが手っ取り早いってなっちゃうのよね。
愚民による民主主義をやるなら、
賢帝による帝国主義のほうが幸福になる。
そして賢帝はそのうち腐り、
民主主義に取って代わられ、
愚民に蹂躙されておわるのよ。
ジャニーズ帝国を見れば、
その仕組みが理解できるというものだ。
TOBEやSTARTOがこれから賢帝になれるか、
愚民になるかは、未知数ではあるが。
僕は楽観的な性善説で、
議論すれば理解できるという市民主義なので、
このようにして議論している。
だけど、これだけやっても味方は少ないね。
ギリシャのポリスみたいになりたかったがね。
残念だが、調整型護送船団方式民主主義、帝国主義の方が強そうだ。
2024年06月02日
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