日テレのセクシー田中さん事件の報告書を読んだ。
https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20240531.html
僕はずっと胸糞が悪く、胃が痛く、終始怒りに満ちていた。
原作者の側に感情移入したからだろう。
報告書を読むまでは、
僕はプロデューサーや脚本家に、
「自分の能力を示したい」「○○の都合で」などの動機があり、
だからアレンジしたのでは、と予想していた。
目的の齟齬(コンフリクト)があって、
それによる揉め事なのではと。
最悪、悪意であり、
もっと最悪のケースは無自覚な悪意であると。
ところが実態はそうではなかった。
芦原妃名子を殺したのは、
読解力のない凡才たちの、無能の小物集団だった。
つまり、何かしたから殺したのではなく、
何もできなかったら殺したのだと、
僕は理解した。
原作者は、終始イラついていたと思う。
言葉遣いこそ丁寧だけど、
あれは京都人が怒ってる時ほど丁寧になるのと同じ文法だ。
後半その取り繕いすらできず、
とても攻撃的になったのは、
どれだけ要望を出しても改善しなかったことへの、
苛立ちであると思う。
なぜか?
「理解された」と一度も思っていないからだ。
彼女は、理解されてない人に、
半年以上軟禁されたのだ。
どんなに言葉を尽くしても、
どんなに文面を工夫しても、
ついにその気力もなく、
怒ることでしか表現できなくても、
理解者が一人も現れない苛立ちの孤島で、
ショーマストゴーオン状態で、
彼女は半年以上軟禁されたのだ。
そして出来上がったものが失敗作だ。
(9、10話の脚本を原作者自身が書くのは異例の事態である。
そして素人が実写の脚本など書けるものではない。
原作者自身も拙さを恥じている。
客観的失敗かどうかは置いといて、
彼女自身は失敗だったと思っている点が大事)
死にたくもなる。
原作を読めばわかる。
創作というものは自分が無意識に出るところがあり、
原作者の投影している自分は、明らかに朱里だ。
朱里は小学校の徒競走で、
「抜いて一番になれるのに、
目の前の一番の子が嬉しそうにしてたから勝ちを譲った」
子である。
そしてそれだけでなく、
それを母親に言ったら「うそつけ」と言われて、
大変傷ついた子である。
それ以来、彼女は本当の自分を見せていない。
いつも誰かに譲って、
いつも外面をとりつくろって、
だから、本当の自分と齟齬があって、
心にどす黒い炎を渦巻いている。
男はみんな嘘つきだ。
ゆるふわで童顔な見た目しか目的ではなく、
本当の自分を見ていない。
本当の自分を見せようと決意した進吾にすら、
拒絶されている。
これはフィクション化しているものの、
原作者自身のことを語っていると思う。
彼女は外面は相当弱気だ。
「出来れば〜とお願いします」
「〜でも構いませんが」
などと、なるべく譲歩の姿勢で、低姿勢で要求を出している。
それは、
外面を作り込んだ朱里そのものではないか。
本性は違うのに、
ゆるふわ童顔のキャラを演じているのだ。
本性は?
キツイ言い方をする、朱里そのものだ。
制作期間後半の苛立ちを見れば、
そっちが本性だとわかる。
前半の言葉遣いは、外面にすぎなかったと。
そしてその絶望は、
「田中さんの現れなかった世界線の朱里」に等しい。
セクシー田中さんの話なのに、
田中さんの現れなかった世界。
「外面だけで判断されて、
嘘をつかれて肉体だけをレイプされ、
信頼してた人には『友達だろ』と言われて、
本当の理解者を得られなかった状態」だ。
セクシー田中さんの物語の中では、
田中さんという「自分とは違う背筋の伸びた人」に出会い、
彼女を目標にして生きるようになる。
そして進吾から「依存してるだけでは?」と言われ、
自らのあり方を模索するようになる。
原作者の半年以上の戦いにおいて、
田中さんも、進吾も、きっといなかった。
朱里は、ずっと孤独で苛立っていた。
なにに?
「理解されないこと」にだ。
僕は、セクシー田中さんの漫画を読んだ時に、
これを実写ドラマ枠でやるのは無理だと感じた。
30分×10話で、結論出せるものではないだろと。
そしてドラマ化決定時点で、
原作のテーマらしき要素はまだ出揃っていない。
ということは、
踊り場的な結論に辿り着く必要がある。
それを良しとするか、
それとも、
設定だけ借りた別物にしてしまうか、しかないだろうと。
日テレ側の戦略は後者であった。
そしてそれは、
原作を深く理解して、吟味した上での決断ではなく、
原作の読みの浅さによる、
無理解によるものであった。
報告書より企画書(の一部?)を引用する。
> 企画意図、企画ポイント
> 1. 自分を縛る“呪縛”から解放された時の カタルシス
> 2. 真反対なふたりの女の友情がスゴい!
> 3. 9笑って、1グッとくるド ラマ
> 4. あらゆる世代に響く!60 代専業主婦女性の1歩
> 5. 田中さんと笙野の恋の 行方は!?
この理解の浅さよ。
朱里のことは何も出てこない。
骨格が、
「田中さんが自分を縛る呪縛から解放されて踊り、
笙野と恋をする話」と読めるよね。
原作は、朱里視点で田中さんに出会う話であり、
田中さんは主役ではない。
朱里が主役である。
(朱里に関してエピソード数が少ないのは、
「自分を書けない」という、投影人物特有の現象だ。
少年漫画において、主人公だけつまらないキャラになるのと、
同じだと思う。
風魔のドラマ化で一番議論したのはこの点であり、
主人公小次郎の物語に、僕は原作を再編成した。
これに関しては別の議論なので譲る)
60代主婦(笙野の母親の話)の一歩、いる?
エピソード自体は嫌いじゃないけど、
30分10話でしょ?
絞るべきでしょ?
テレビを見てる老人層に刺さると思った?
ターゲットは誰なの?
老人層に刺すつもりで、
「9笑って、1グッと来る」のはおかしくない?
そもそも原作は「9笑って、1グッと来る」じゃないぞ?
「7じめじめしてて、1笑って、1踊って忘れて、
1沁みる」ぐらいのバランスでしょ。
原作の解像度が低すぎない?
それとも、
原作はそうなんだけど、ドラマは9笑い1グッにします、
という再解釈なの?
しかし9コメディにしたら、
朱里の内面や、そもそも田中さんの動機であるところの、
「誰からも理解されないブスの40歳処女」は、
何も描けないことになるよね?
原作をこのように捉えました!
だとするとあまりにも無理解だし、
原作はこう分析しますが、
ドラマ化するに当たって、
骨子をここにします!
という宣言でもない。
なぜなら「原作をこう分析します」が抜け落ちているからだ。
つまり、
ドラマサイドの読解力が低い。
低すぎる。
赤点レベルだ。
これがストーリーを扱う職業のレベルと思わないでくれ。
僕は失格だと思う。
プロデューサー試験不合格だ。
そして、
この企画書を受け取り、
話を前に進めた小学館編集者は、
疑問を抱かなかったのだろうか?
「だいぶ原作の骨子とずれてますが」
というのが第一反応であるべきだ。
作家を理解し、守るのが仕事ならね。
「この物語は、
周囲に気を遣って自分を出せない女の子と、
周囲をシャットアウトしてきた女の子が、
踊りに出会って背筋を伸ばせるようになる話です」
と、
なぜ日テレ側に言えなかったのか?
「だから、あなた方の『セクシー田中さん』の捉え方は、
間違ってます」
と、
なぜ日テレ側に言えなかったのか?
読解力がない無能だったからか?
日テレ-小学館の付き合いのために、
強く言えなかったのか?
真相解明は小学館側の報告を待つとしよう。
(ひょっとすると、担当編集すら、
読解力の足りていない、
ストーリーを扱う資格に達していない可能性もある。
そして多分そう)
まずこの企画書でビジネスがスタートしたことが、
半年以上のボタンのかけ違い地獄の、
初手の初手の初手であった。
「まず原作の本質や骨子を話し合いましょう。
それで認識がずれているのなら許諾しません。
その上で、ビジネスとして、
どのような興行にするのかを話し合いましょう」
が、
編集者としてベストな振る舞いだったと思う。
ストーリーをビジネスとして扱い、
ストーリーを興行として考えるならば、
それが当然だ。
報告書によれば、
日テレ側にそのような認識はなかったことは事実だ。
つまり、
無理解者同士がなあなあで進み、
無理解なままビジネスが進み、
契約書も交わさず、
確認の伝言ゲーム(ラリーというからには、
同じ議題で何度も何度もやったのだ。
疲弊そのものではないか)をやり続けた、
という無能凡才集団がこのビジネスの正体である。
こういう時、
脚本家がきちんとした作家ならば、
「プロデューサーのいうビジネス形態は分かるが、
それは作者の作品意図とずれてるよ。
そこは確認したの?
自分ならそんな改変されるの嫌だけど」
と提言したと思う。
でもそういうことを言う人は、
「反抗する人」「難しい人」扱いなのかな?
僕はきちんと言う。
それは、ビジネスのもう一方の端にいる、
原作者という作家と仕事をすると思うからだ。
原作を預かる以上、
原作者が思ってもないことをするわけにはいくまい。
「原作者が思ってないことをしますが、
これはこのような理由で必要です」
と説明する義務がある。
でなければレイプだ。
僕は自分の作品をレイプされたくない。
向こうもそうだろう。
たとえ、間に立つ者たちが、
無意識にレイプしていたとしても、
自分は確認を取りたいと思う。
それは、作家としての礼儀であろう。
だけど、
日テレ関係者、編集者たちは、
そのようなことは考えていなかったように、
報告書からは読める。
「適当に変えたれ!」
「それはだめです」
「これでお伺いをたてて!」
「だめでした」
「これなら?」
「一字一句変えないで」
「じゃあこれは?」
「自分に書かせろ」
と、原作者の態度は徐々に硬化している。
それは苛々と怒りの現れだ。
六ヶ月、何度も何度もレイプされたのだ。
いい気分ではなかったろう。
その度に丁寧に説明したはずだが、
間の2レイヤーによりマイルドに変更され、
なんなら揉み消されて、
脚本家チームには届いていなかった。
理解してなければ、ちんこ振り放題になるわ。
変えないわけにはいかない。
そんなこと大人ならわかる。
しかし変えられたものが、
なぜそうなったのか理解できないほどひどいし、
そもそも原作をどのように捉えてるかが違う気がする。
それを原作者が確認する手段はなかった。
「これ、原作の解釈がまちがってませんか?」
「根本的にまちがってないですか?」
と、なぜ誰も言わなかったのか?
無理解者しかいなかったから、としか言いようがない。
そして、
原作者の言いたいことはただひとつ、
「ちゃんとわかってる作家を連れてきて」
だったと僕は思う。
原作を改変する/しないが問題ではない。
6巻もある物語を、20分×10話=200分に納めるには、
原稿用紙200枚で尽きてしまう。
小説なら一冊だぜ?
6冊を1冊に縮めるんだから、
自ずと省略や再構成が必要なのは、
バカでもわかる。
だからこそだ。
何を残し何を切り、そして何を変更して、
「原作の魂を再構成したか」が問題なのだ。
なんなら、ベリーダンスでなくてもよかったはずだ。
「自由になれて、背筋を伸ばせるもの」で、
撮影予算がかからないものにアレンジしてもよかったのだ。
たとえば生花でもよくない?
格式高い流派じゃなくて、仮屋崎みたいな自由な
(伝統派からすれば「お行儀の悪い」)やつ。
見た目は全然違うけど、
本質をよりよく表現できるなら、変えてもいいんだよ。
「見た目の再現」が実写化ではない。
「本質の再現」が翻訳だ。
僕は、「風魔の小次郎」のドラマ化で考えたのは、
そういうことだ。
ディテールはまるでぶち壊し、
低予算ながら原作リスペクトの再現、
そして統合的な「魂としての風魔の小次郎」を、
再現できたと考えている。
これはレベルの高い仕事である。
これをやるには、
周囲もレベルが高くないとできない。
日テレと小学館の、今回のスタッフは、
物語の理解レベル、再構築レベルが、
低かっただけのことだ。
つまり、
今回の原作者は、スタッフガチャを外したのだ。
このガチャを外したせいで、
半年以上レイプされ、挙げ句の果てに失敗作だったのだ。
この文章はセカンドレイプだろうか?
だけど、
その自覚のない者に明らかにさせるには、
この文章を書くしかないと思った。
天国の芦原さん、もう少しだけ許してくれ。
だって誰もこのことを言ってないからだ。
スタッフガチャが外れかどうか、
見極める方法はあるだろうか?
初手だ。
企画書にすべてがある。
「私たちはこのようにこの原作を理解しました!」
って書いてあるからね。
「ちょっとズレてない?」を大事にしたほうがいい。
「そのちょっとはちょっとだから、
話し合ううちにギャップは消えるだろう」
と期待してはいけない。
そのズレは、どんどん広がる。
だって最初からズレてるんだもの。
断層がどんどんズレていくのに似ている。
セロテープで止めたって千切れる。
軌道修正はできず、二つに裂けるしかない。
「ちょっとズレてると思います」と、
断ろう。
「ズレてるがありだと思います」と、
許諾しても良い。
ズレてるが、ありのものが出来るだろう。
「ズレてるけどやりながらそれを埋めましょう」だと、
半年以上の地獄レイプが続く。
僕は、「いけちゃんとぼく」の、
プロデューサーたちの原作の理解度の低さに、
一年近くレイプされ続けたからね。
理解度が低いことは、
たぶんどれだけ説明しても伝わらない。
「こうしろ」と強権発動するしかない。
本件の原作者が頑なになった理由はわかる。
原作者権を発動することでしか、
レイプを止められなかったのだから。
僕にはそんな権利はなく、
失敗作がスクリーンに流れ、DVD発売される羽目になった。
僕は自殺しなかった。次をつくるためにだ。
僕の方が、朱里のように我慢しなくて、
すぐ本音を言う分ストレスが溜まらなかったのだろう。
朱里は今度1位になれるチャンスがあったら、
どうしただろう?
「セクシー田中さん」のエンディングは、
多分そういうエピソードで締められたと想像する。
報告書の中には、
今後想定されるストーリーの結末として、
「朱里はメイクの仕事につく」というものがあった。
老人ホームでボランティアのメイクをやって、
必要とされる場所、居場所に気づいたのかもしれない。
1位2位を競う場所ではなく、
トラックを外れて、別のゴールテープを切ったのだろう。
それも朱里らしいと思う。
あー、笙野-朱里というエンディングもありえたな。
悪意なく無邪気に本音をいう
(そしてそれは人を傷つける)笙野は、
気を遣って本音を言わない朱里の真逆だものね。
二人は「自分に欠けてるもの」を補い合える、
ベストカップルだわ。
そして、笙野は銀行を辞めて、
メイクの仕事をしてる朱里の専業主夫になる
(台所に立ち続ける)、というエンドもありえたわ。
そこまで朱里が描ければ、
田中さんは笙野に振られることになるけど、
別の男を見つけるか、三好さんの尻をまだ追いかけてるエンドで、
収まりがつくな。
なぜ原作者は自殺したのか?
それが僕の一番知りたいことだ。
何があったのか?
大体はわかった。
原作を理解してる人が誰もいなかったからだ。
それは、「生きづらさを抱えた人々が、
解放されてゆく」程度の、
表面を舐めた程度の理解ではない。
自衛隊が毎日拳銃を分解して再組立するように、
パーツの一つ一つまで理解して、
自分で組み立て直せるほど理解しているような、
そういう理解である。
原作を深く理解していれば、
「朱里と進吾をカットする」ことさえありえた。
「200ページしかない中で、
我々は焦点を絞らなければならない。
長大な原作に比べて、ドラマはあまりにも短編である。
朱里のパートをカットして、
田中さんを主役に絞っただけの、
小規模の田中さんとして完成させたい」
という再組立の方法だってあったろう。
「ただ絵面が地味になるので、
視聴者の代弁者としての朱里は残す。
ただキン肉マンにおけるジェロニモの役割なので、
朱里と名前をつけるのもおこがましいので、
仁美(仮)とさせてください」
ということだってありえた。
そのレベルの議論をするべきなのだ。
ところが。
報告書を見れば、
「原作者の意向に沿ったものを」
という対応しかしていないことがわかる。
なんならほとんどそれに費やされている。
それは、
「原作者が放映停止権を持っている」からだと、
文面から理解できる。
あるいは、海外頒布権、DVD化権の停止もできる。
それを恐れていたから、
「脅されてビビって言うことを聞く」しか、
対応としてはしていない。
それは間違った対応だ。
「私の理解する田中さんのストーリーはこうです、
そして原作者の漫画はそのままドラマにはならない。
今回はここをフィーチャーして、
ここの本質だけ残します」と原作者と議論することが、
原作者の「ほんとうにほしかったもの」だ。
それがなく、
「まちがったもの」を出し続け、
「正解に近づくこと」だけの綱引きをしていたから、
両者疲弊しまくったのだ。
原作者の意向は、
そもそも伝わっていなかった問題もある。
「ビタ一文変えるな」と伝えたつもりだが、
いつまで経ってもアレンジしまくりしか出さない、
レシピはここにあんだろボケ、
ひいいい怒ったああああ、
というのが、
起こった出来事だ。
「最初からこう言う条件だと知っていたら、
私は脚本家を引き受けなかった」と、
脚本家も言っている。
じゃあ、脚本家が考えたなりの、
田中さんの本質は何であったのか?
の議論が抜け落ちている。
あなたはどのようにこの作品をつかって、
どのような本質をドラマとして作るつもりだったのか、
そのヒアリングが抜け落ちている段階で、
日テレ調査は役立たずだ。
ものの本質を見ずに、
ガワだけを整えて、
ガワが合ってるか合ってないかに終始しているからだ。
ストーリーを扱う職業ではなく、
間違い探しを発見する職業につくことを薦める。
ここでも、
ストーリーの理解者は、
誰一人いなかったことがわかる。
報告書の後半は見るに値しない。
まるで自殺の原因が、
脚本家と原作者のネットバトルと、
ネット民の中傷であったように印象付ける、
悪質な行為だ。
なぜなら、
「今回のドラマは原作者の承認を得たので、
原作者が満足したと認識している」という態度だからだ。
あほか。
朱里の性格を読んでないのか。
1位を遠慮して譲る子だぞ。
そして「1位になれたのに」と本当のことをいったら、
「うそつけ」と言われて傷ついた子だぞ。
原作者のOKは、
「大満足!これで行きましょう!最高です!」
なわけないじゃん。
渋々OKを出すけど、
表面的にニコニコしてこの場をやり過ごしている、
でしかないよね。
京都人のコミュニケーションをもう少し研究しな。
そこを読み取らず、
「原作者のOKは大OK」
と解釈して開き直る関係者は、田舎者に過ぎる。
高度な文化としてのストーリーを扱う資格はない。
何故芦原妃名子は自殺したのか?
誰からも理解されず、レイプされ続けたからだ。
ただ理解者と議論したかっただけなのに、
何度も何度も説明したのに、
帰ってくる答えが頓珍漢で、
怒ったらナイフにビビって手のひらを返されたからだ。
ああ、この人たちは私と作品をわかってない、
と思ったら、
魂の緒も切れるよな。
それを、「難しい人」呼ばわりした人々よ、
きみらの頭が単純にすぎるのだ。
いや、IQとかテストの問題を言ってるのではないよ。
「ストーリーを扱うだけの複雑な工程を、
扱うだけの器量がない」と言ってるのだ。
「心の襞の数が少ない」と言ってもいいか。
日テレ全体がそうではなく、
この個別のケースがそうであったと思いたい。
だけど、
実写映画「ガッチャマン」がうんこ級の出来であった
(これがこのブログを始めた最初であった。
それは作品置き場の最古の記事にある)
ことを見ると、
「Gを一匹見たらあと十匹はいると思え」と想像してしまう。
駆除できるだろうか?
バカはバカを認めないから、難しいと思う。
ちなみに僕は自分をバカだと思う。
バカ正直にこんな記事を書いてるからな。
凡才たちよ、
バカたちよ、
どうすればこの悲劇を避けられたのか?
難しい人が現れたら、
「僕らバカなんで、天才連れてきます」と対応することだ。
バカは難しい人同士がしゃべったら、
揉め事が2倍になることを恐れる。
そうじゃない。
「自分たちにできないことを、
難しい人たちは解決できる」と理解することだ。
彼らが「それでも難しい」となったら、
三人目の天才を呼んでくることだ。
バカはバカなりに使える。
素直なバカほど、仕事ができる。
「難しいことはよくわかんないけど、
上手く行ってるからうまい飯食いに行きましょう!」
って言うバカは、一緒にいてたのしい。
人間は完璧ではない。
完璧でない世界でやっていかなければならない。
だけど背筋を伸ばして、
自分の居場所で輝こうというのが田中さんのテーマだ。
完璧じゃないことを認めて、
バカ同士で天才とタッグを組めれば、
皆が背筋を伸ばせたのに。
芦原妃名子さん、
面識はないけど、天国で酒を飲ませてください。
俺の結末予想があってたか、こっそり教えてね。
2024年06月03日
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