2024年06月07日

デザインの原則

デザインの原則とは、
表現の原則でもある。

それは、たったみっつに集約される。

(セクシー田中さんの事件を考察したいのだが、
小学館報告書を読み、検討する時間が取れないため、
まだ読めていない。
だけど昨日一昨日の京王電鉄の件は根っこは同じだと思い、
まるっと脚本論で議論することにした)


デザインの三原則とは、

1. This is what
2. You can do this
3. You can not do this

が明確に理解できること、
ではないだろうか?


それが何かわからない、
わかりにくい、
他と区別がつかない、
混同する、
混乱する、
整理されて統一されたものになっていない、
ものは意味がない。

渋谷駅の「紺色は、
井の頭線とエレベーターと案内板の色である」
ことは混乱を招くし、
整理されてない。

京王明大前駅の、
紺色とピンクの使われ方は混乱している。
錯乱といってもよい。
京王調布駅の「バス乗り場」誘導は、
バス北口とバス南口があることを伝えていない。


情報を整理して、
分かりやすく提示して、
見るものにどのような整理になっているのか、
を伝えるのは、俯瞰して全ての状況がわかっている者だけであり、
それが伝達者である。

伝達者が伝達したいことが、
情報を整理してなかったり、
そもそも整理を必要としてなかったり、
全体の俯瞰的状況を把握してなかったりすると、
伝達は歪み、
デザインは狂う。

紺色とピンクのような錯乱、狂乱、誤りを起こし、
群衆誘導としての看板は混乱増幅装置になる。


デザイナーにはその俯瞰的整理は伝えられず、
デザイナーは極地的都度直しになり、
これまで積み上げた賽が鬼によって蹴られて台無しになり、
何度もやってるうちに疲弊して自殺する。


これはセクシー田中さんの事件と同じ構造だ。

何が俯瞰的状況か、
一番俯瞰者が理解して整理してなければ、
末端は混乱した状況に放り込まれて、
死ぬまで訳の分からない石積みをさせられることになる。

東京五輪の失敗、太平洋戦争の敗北、
数々の実写化の爆死は、
共通したこのような構造があると思う。


This is whatにきちんと答えられるか?
端的に、本質をつき、整理したものとして伝えられるか?
それをトップができなければ、末端ができるわけがない。


セクシー田中さんの場合は、
「お前は幸せになれないという周囲に対して、
背伸びして生きていこうと思う」という原作の本質を、
「9笑って1グッと来る」という全く異なる本質に捉えたこと
(誤読かもしれないし、意図的改変かもしれない)が、
This is whatに失敗していることの証拠である。

日テレプロデューサー、小学館担当者という、
ビジネス上のトップがこれを下知して、
それぞれの手下はそのように動いたが、
意図が異なるため齟齬が起きた、
というのがことの本質だ。


太平洋戦争でも同様であろう。
軍部が把握していた戦況と、
現場の戦況は全く異なった。

東京五輪の「福島復興五輪」は吹き飛び、
得体の知れないThis is whatになった。

京王明大前駅では、
紺色が何か、ピンク色が何かを、
示せていない。

ロゴでは、井の頭線=紺色、京王線=ピンク、
階段では、下り=紺色、上り=ピンク、
床では、左側通行=紺色、左側通行=ピンク、
柱や壁では、井の頭線、京王線=紺色、井の頭線、京王線=ピンクと、
混乱、錯乱が混在している。

紺色is何? ピンクis何?
に答えられていない、
小学生でもわかるバカがいるわけだ。



これを整理して、
端的な本質に仕立てることを、デザインという。

デザインとはかっこいい形やスマートな形や、
かわいい形をつくるものではない。

設計という意味のデザインだ。

「整理されたものをつくること」がデザインである。

そのためには、
整理しなければならないわけだ。


紺色は何を示してピンクは何を示すのか、
そもそも二つに対極的に分けられるものなのか。

東京五輪の目的はなんなのか。

セクシー田中さんとはどのような物語であり、
原作の半分以下しかないドラマの尺を、
どのように整理してどのような興行とするのか。


これらが整理されていなければ、
整理することができない。

つまりデザインの失敗とは、
整理の失敗である。



デザインの中のひとつ、
看板やインフォメーションは、
上にあげた1の他に、
2や3の、許可推奨、禁止を誘導することがある。

それは何故かわからないと、
それに従うことはできまい。

「住宅街につき、午後10時以降の騒音はご遠慮ください」
などのように、理由がわかれば人は従う。
「午後10時以降の騒音禁止」
のような高圧だけしかなかったら、
虫の居所が悪いときにはわざと騒いでやる。

「左側通行」は、その方が動線が整理されるから、
理由がなくても従える。
だが左側通行推奨に紺色とピンクがあると、
異なる推奨があるのかを考え思考が止まる。
理由を考えてしまい、
そしてその理由がわからないからだ。


整理とは分類である。

Aを、PQRに分類するのか、
WXYZに分類するのかは、
整理者によって異なる。

燃えるゴミ、燃えないゴミ、ビン缶なのか、
燃えるゴミ、リサイクルプラ、ビン、缶、ペット、生ごみ、なのかは、
分類者、整理者によって異なる。

「燃えるゴミ」と点だけで示されてもわからない。
「私たちはこれをこれらのように整理した」
がないとわからない。

だから、整理とは全体と部分の関係が、
容易に見えるものでなければならない。


部分から全体の見えなかったものは、
太平洋戦争だろう。

ガダルカナルの戦況を本部は把握してなくて、
本部から来た指揮官も理解していなかった。
現場は思ったより悪いことを指揮官はなんとなく察していたが、
本部への報告は自分の評価が悪くなるから、
現実とは異なる、本部の期待する戦況を報告していた。

だから、誤った軍略により、
死体の山が築かれた。


東京五輪も似たようなものだと思うが、
現場の惨状しか見えて来ず、
五輪委員会の内部調査がないため、
なぜあんなになったかはわからない。
優れたジャーナリストの出現を望む。


情報とは分類であり整理であり、
全体であり部分である。

それを、初見の人に秒でわかるようにすることが、
デザインであり、
表現である。

表現者がデザインが下手ということはない。
デザインが下手なやつは、表現する資格がない。

形や絵は絵心だけど、
情報の整理は絵と関係ないからだ。



というわけで、
京王電鉄と日テレと大日本帝国と東京五輪委員会は、
同じ罪がある。

愚という罪だ。

俯瞰して整理して状況を見ていない、愚という罪である。
俯瞰できるのはトップのみだ。
だからトップは責任が重く、
真っ先に首を落とされるべきなのだ。

セクシー田中さんの場合は、
日テレチーフプロデューサーと小学館ライツ、
太平洋戦争では昭和天皇(形式上ではあるが)、
東京五輪では同委員会である。

責任の明示がないものは、
そもそも指揮系統がおかしく、
それもトップの責任であろう。


トップダウン組織でない場合はこの限りではない。
全員が全状況を把握できるべきだ。
この場合、原始的村の復活になろう。
全員が全員を把握できるのは、20〜30人までの、
部族的人数まで。
毎日同じ釜の飯を食うしか、
部族になる方法はない。

つまり、少人数部族ルールか、
トップダウンそれより大人数ルールかの、
二つの方式しか、
今のところ機能する人間組織はない。

そして、後者が腐り始めている、
というのが現代社会だ。



デザインは表現であり、
表現はデザインだ。

表現者は誰か。

個人なら個人内で完結できる。
社なら社でこのようになっていればよい。

なっていないもので、
混乱と悲鳴が起こってゆく。
posted by おおおかとしひこ at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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