2024年06月08日

ボタンのかけ違いは、初動で起きていた(セクシー田中さん小学館報告書)

小学館側の報告書を読んだ。
https://doc.shogakukan.co.jp/20240603a.pdf

ドラマ枠決定時点で決裂予想を立てられるくらい、
何もかも初動で間違っている。

ヒヤリハットどころじゃねえ。
バケツにプルトニウム入れて7歳児が振り回してるレベル。


まず放送枠が、
1〜3話のプロットより前に決まってないってなに?

プロットというのは、枠ありきで考えるものでしょ?

30分ドラマか60分ドラマかで一話の重みは異なるし、
何話で完結させるかでも一話の重みは異なるぞ?


文章や音楽や物語や講演など、
時間軸のあるものはすべて、
尺ありきで考える。
序論、本論、結論のバランスを決めるためだ。

まず全体と結論を決めてから、
序論をその伏線としてつくり、
本論を構築するのだ。

結論の伏線になってない序盤は切るべきだし、
本論が結論の前提になってないなら書き直すべきである。
すべては結論に向かってなだれ込んでゆく。


小学館よ、19ページの漫画と39ページの漫画が、
同じネームになるのか?
そこのおかしさに気づいてないのがまず変だ。
19ページ×10話と、39ページ×5話ですら、
重みや展開や結末は変わるだろうに。

それを変わらないとでも思っているような感覚の鈍さを感じた。

かなりヤバい。それだけでもうヤバい。
「今何キロ出てて、目的地はここである」
を確認してない走る車だ。
しかも原作者は300キロ出るエンジンの人である。


そしてそれ以前の、
初動がもうヤバい。
コンセプトの交換が間違っている。

日テレ報告書では、
田中さん主役のものだ。
朱里は出てこず、田中さんが一本柱である。

しかし小学館報告書の理解では、
「40 歳を超えてわが道を往く 経理部の地味な OL・田中さんとリスクヘッジを考えて生きる 23 歳可愛い 系 OL・朱里。真反対なふたりが化学反応を起こす、ほっこりラブコメディ」
を第一義のコンセプトとして考えている。
田中さんと朱里の二本柱であると。

案の定、
1〜3話の朱里の扱いで火の手が上がっている。
これを皆ボヤだと思ったのだろうか?
これがボタンのかけ違いの本質であり、
火種の中心であったというのに。


小学館よ、ページ数を確認せよ。


30分10話のドラマとは、
20ページ×10話で「完結までいく」ということだ。
そして僕が起こした原作そのまま版第一話の脚本は、
43ページあった。

再掲する: セクシー田中さん原作準拠版#1.pdf
(この1ページが約2分になるフォーマットで書いています。
つまり1ページ800字レイアウト)

「(企画スタート時点で)43×12話=516ページ概算相当のものを、
200ページに縮めなければならないプロジェクト」
と、双方が認識している初動ではない。

1〜3話のプロットなんてやってる場合ではなく、
「どこを半分落として本質を残しますか?
ていうか、本質はなんですか?」
の議論を丁寧にしなければならない。


日テレの思惑としては、
「半分に切るんだから、朱里を切れば半分になるでしょ」
という雑な計算が見える。

小学館の思惑としては、
「半分に切るなんて思ってもみないから、
原作と同じものを作りたいという先生の意向をなるべく忠実に」
しか考えていないことがわかる。


土地が半分以下のところに、
半分の家を建てようとする日テレと、
何も知らずに二倍の家を建てようとする小学館。

どう考えても小学館側のほうが無理筋だ。


日テレ側が「小学館が絵に描いた餅しか見てない」ことを、
分からないまま最後までいたことは、
日テレ側報告書を見る限りあきらかだ。

ということは、
双方が「何を目指すかイメージできてない」
ことが、
この揉め事の最大の原因である。



手前味噌だが、
ドラマ風魔の小次郎は、
30分×13話という全体枠、
原作夜叉編をやること、
そしてそのキャストを使った舞台をやること、
まで確認した上でのスタートだった。
原作は足りない。というかバトルだけだと予算オーバーだし、
ドラマにならない。
だから、「表で試合、裏で死合」というコンセプトと、
「小次郎を軸に成長を描く」という一本の背骨を通したのだ。


その土地にその建物を建てるなら、
大黒柱は何になり、
どのような大きさであり、
どのように原作と外面は異なりながら、
どのように原作と本質は同じかを、
議論するべきであり、
それが脚本打ち合わせの、
初手でなければならない。

脚本の文字を書くのはあとでよい。
作業全体の半分にも満たないだろう。




仕事とは、ゴールに対する逆算である。

すなわち、
20ページ×10話という土地をまず確認して、
ここにどのような家を建てるかをイメージする。
原作の60%をカットして残り40%、
しかも結末2話はオリジナルエンドにする予定なのだから、
その8割、32%しか残らない。

したがって、

 【原作の32%を1〜8話に、
 原作の濃度の8%を9〜10話に割り振る】

がゴールイメージだと共有するべきである。

これは原作者から脚本家チームから、
プロデューサーたちからキャストから、
編集者からライツに至るまで、
全員が共有するゴールイメージであるべきだ。

内容はまだ議論していないことに注意されたい。
まず分量に関する議論である。

しかしこの見積もりがまず必要であり、
それが齟齬をきたしているからこそ、
ボタンは無限かけ違えを起こしている。


日テレ側は「原作が足りない」って言ってた?
嘘をつけ。
嘘でなければ割合を知らない小学校低学年並みの知能である。

この計算をなぜ最初にやらないのだ?

難しい数学じゃなくてただの算数だぞ?
文系だから算数がどう役に立つか知らないのか?


日テレ側は原作の32%を残し、
それを8話に割り振るつもりだった。

そりゃ削ぎ落としはむごく、
省略や都合も発生するよね。
32%のうち、落とした矛盾を貼り合わせる接着剤も必要だから、
20%残るかな?って体感だ。

それを、100%に近づけようとする小学館側は、
狂ってる。

それを、どちらも「狂ってる、間違いだ」と言わずに、
「原作者神様の仰せの通りに」
ってなってるから不毛戦争に突入するしかないんだよ。
ナイフで切りつけ合うしかなくなるじゃん。


これをプロデューサーがまず見積もるべきだ。
それができないプロデューサーは、
内容を扱える資格がない。

大匙や測りを持たずして、
目分量で料理を作る人である。
しかも初めての料理をね。
めちゃくちゃな味になるに決まってる。
それでレシピを再現できたら偶然でしょ。


今の肌感でいうと、
その計量ができるプロデューサーはまれで、
脚本家がそれを計算することになる。
そして数字で議論できる脚本家はあまりいなくて、
都度都度不満という形で怨嗟を蓄積することが多いね。

だから問題なのだ。

これは、内容に触れていない、
ただのページ数と分量の計算である。

「フルに残したとしても32%しか原作を使えない。
長年の勘だと20%が妥当」
ことの深刻さを、
なぜ誰も疑問に思わないのか、
僕にはわからない。

全員ボンクラだから、としか言えない。


「え?1/3とか1/5しか原作入らないの?
じゃあ内容をきちんと考えなきゃ」って、
誰一人思ってないのが、
危機的状況だ。

「原作の2/3〜4/5をカットする」って初手から危機的状況なのに、
それを危機的状況だと誰も認識してないのが、
危機的状況だ。
プルトニウムをバケツに入れた状態だろどう見ても。

ボンクラどもが集まって、
ここからどう知恵を絞ったって、
無理に決まってるじゃん。

だから全員が疲弊して、
そして一番ダメージを受けた人が一人死んだんだよ。

勝てる戦いをやれよ。
まず土地と建物をイメージしろよ。
材料と分量を吟味してからかかれよ。




原作の本質は、
「朱里が田中さんという面白い人に出会い、
変化する」ことであろう。

だけどドラマは、
「田中さんと愉快な仲間たち」
を目指していたと思われる。

だから朱里は「親から押し付けられた短大」ではなく、
「可愛い制服を着たかった高校に行けなかった」
ように改変された。

原作は朱里が主人公なのに、
ドラマは朱里は「いなくてもいいその他一人」だからだ。

だって木南晴夏の格が明らかに上。
逆でしょ。
朱里を主役にするなら、
ここを生駒里奈くらい格のある人にして、
田中さんは芝居のできるダンサーくらいでもいいはずだ。

キャストの格はギャラの上下でもある。
木南晴夏100万に対して、
無名の朱里役は10万くらい?50はいかない。
(概算です)

キャスティングには、
そのストーリーの骨格が現れるのだ。

このキャスティングに原作者と小学館が合意したということは、
このキャストの格によって物語の構造が決まることに、
原作サイドが合意してしまったことになるわけ。

おそらく小学館サイドはそれをわかっていない。

「このキャスティングに合意したくせに、
その反発はなんだよ」って、
日テレは思っている。

思っているが、原作権を振りかざされて怯えている。


双方誤解と恨みが積もってゆく。




あとは言った言わない、
書面に残す残さない、
法的手続きがどうのこうの、という、
泥沼の水掛け論にしかならない。
ナイフを振りかざし、切りつけ続けて、
どっちが悪いとなすりつけるしかない。
2話の脚本は計6回直された。
そんなのうんざりだ。
8話の脚本時点で双方が双方を信用できなくなったのは、
当然の帰結であろう。

意味のない喧嘩だ。
うんざりする。
うんざりしたから一人死んだんだよ。
3月から翌1月。半年かと思ってたら10ヶ月の軟禁か。
全プロットをイライラしながら直す、
全脚本を4稿〜6稿まで直す、
全脚本をそれだけ直されて変えるなと言われる。
人が異常を来すのに十分な時間だ。

物事の両端だけを見ると、
最初から原作通りにしろって言ってんのに4×10回直らない脚本。
原作ロボットとは聞いてなくて、
自分なりに再構築しようとしているのに、
40回も直される脚本家。

間に入ってる人たちのせいで、
40回の揉め事の本質はぼやけたまま。

謎のベールに向かって40回仕事をする気狂い仕事。

20回くらいでうんざりする。
以降は殺意しかないだろうね。
どっちも相手を、つまらねえことしやがって、
と内容と人格を同一視するだろう。

脚本できたら終わりかと思いきや、
クレジットの揉め事はあるわ、
SNSで場外戦だわ、
地獄しかない。




なお小学館にひとつアドバイスしておくと、
脚本を書くのが脚本家とは限らないのよ。

編集者と漫画家とはっきり分かれてる仕事しかないわけじゃないでしょ。
ストーリーとセリフを編集者がつくって、
漫画家はそれをトレースする場合もあるでしょ。

それは、プロデューサーと脚本家チーム、
ということもあるのよね。

漫画家はまだ絵を描けるけど、
脚本家はプロデューサーやチームメンバーの出たアイデアを、
「あとはまとめといてよろしく」と、
ケツモチだけやらされることもあるよ。

たとえばきな臭い、
生駒里奈がキャスティングされてる件。
これはプロデューサーがこのドラマで生駒里奈を使い、
話題を呼ぶつもりだった計算だ。
(同事務所に借りがあり、それをここで返す、
という取引すらすることがある)

原作にないキャラだ。
だから生駒里奈が出られる役を作れ、
と脚本家に指示していた可能性が高い。
具体的なストーリー?そんなの脚本家が考えてよ。
スケジュールとギャラは抑えたんだから。

つまり、脚本家がドラマのストーリーをつくったとは限らないのよ。
文字通り「シナリオを描いた」のは、
プロデューサーの可能性がある。

だって企画書を書くのはプロデューサーだよ?
脚本家じゃないよ?

「誰がドラマを書いているのか?」は、
ドラマ業界では定まっていない。

野沢尚は、100%脚本家にしたがった。
しかし彼も絶望して自殺した。

今脚本家は、脚本の3%しか書いてない可能性も指摘しておく。



小学館は後追いで著作人格権の話をしているが、
元の半分以下の大きさしかないものを、
同一人格にできるという前提がそもそも異なる。

「半分のものは同じものか?」
という哲学的な問いが発生することになる。

内容のことを避けて形式的なことをやったとしても、
手間だけ増えて面倒になり、
ますます内容に割けるエネルギーが少なくなる。

それはドラマを面白くする方法だろうか?
原作と共犯蜜月になる方法だろうか?





まず土地と建てる建物の話をしろ。



東京五輪では、「福島復興五輪」は、
どんどん歪んでいった。
ゴールイメージが消失していった。
だから化け物みたいなキメラになった。

太平洋戦争は、大東亜共栄圏というゴールイメージが、
実際には辺縁で破綻することを知らずに、
辺縁から戦線が崩れていった。
ゴールイメージが間違っていたのだ。

渋谷駅の動線計画は、使うものたちがどう移動するか、
ゴールイメージが考えられていない設計である。

京王明大前駅は、なんのゴールイメージもなく、
紺色とピンクに色分けしたろ、
という幼児並みの発想で塗られた絵である。


ドラマ「セクシー田中さん」の、
ゴールイメージはなんだったのか?


日テレ側の思惑は企画書に現れている。
「9笑って1グッと来る」、
つまりコメディだ。
朱里はコメディパートがほぼないので、
朱里はカットすらありえる。

小学館はどうか。「これは○○である」
という言い分はない。
「原作者の意図をだいじに」しか言ってなくて、
ゴールイメージがなさすぎる。


で、
そもそも「セクシー田中さん」は、
コメディか?
という作品論をしてからでなければ、
そもそも実写化はできないのでは?
と僕は考える。

この項続きます。
posted by おおおかとしひこ at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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