2024年06月08日

「セクシー田中さん」はコメディか?

ずっと引っかかってたこと。

原作「セクシー田中さん」は、
コメディなのかな?
僕にはそうは思えないのよね。


原作は全体の何%だったのか分からない。
このコメディ的と思えるものが、
まだ設定段階のものであり、
今後変わってゆく話の、前提条件、
つまりテーマの逆であった可能性はある。

だけど原作7巻時点までが全体なので、
その時点での評価をする。


田中さんが面白い人ではある。
処女だし、男の付き合い方を知らないし、
だからメイクもめちゃくちゃだし、
経理のAIみたいだし、
なのにベリーダンスで踊るし。

でもこれはコメディではない。

僕はこの時点でのこの原作に、
うっすらとしたマウント意識を感じるのよね。

いじめられてモテずに友達もいない女は、
経理でロボットみたいに働くしかなく、
ハムスターしか友達がいなくて、
映画もたくさん見てなくて、
料理はきっちりしてるけど、
食べさせる相手もいなくて、
メイクしたらめちゃくちゃになる。

それは、「自分より下の人を笑う」
感覚に近いと思うのよ。

じゃあ、
華やかな合コンをして、
都会的な恋愛をして、
映画やメイクもして、
ぶりっ子して、美魔女みたいになっていくことも、
勝ち組か?
という疑問も抱いてるわけ。

つまり、
田中さんも下で、
朱里も「上に見えるが価値観の奴隷という意味では下」
だと、
思ってるような気がするのよ。

それを笑うことが、
笑いとして正しいのか?
は、
僕はとても気になる。

笙野を笑うことだって、
堅物で昭和的なのを笑ってるだけ。
「下」に見てマウントしたい笑いだよね。

もちろん、
物語というのは逆境スタートであり、
そこで苦闘しているうちに、
そうではない価値観にたどり着くものであるから、
このマウントすらも逆境の一部の可能性がある。

だから、原作が今全体の何%かが気になったのよ。
絶筆の7巻時点で、
8巻完結予定だとしたら、
これはただ下のものにマウントとって笑っただけの、
心の狭い話になってしまう。
30巻予定だとしたら、
覆されるべき初期条件だと思う。

田中さんも、朱里も、笙野も、
ここから「そうではない自分」へ、
変化していく物語だと。

それは絶筆になってしまった以上、
どうしようもない。


問題は、この時点の原作での笑いは、
マウントによる笑いでしかない、
という本質的な部分である。

これは、
マウントというよりは、
これに近しい女子たちの、
自虐的共感の笑いだとも言える。
そうそう、女ってこうよね、という、
自虐的笑いであると。

もし田中さんがベリーダンスをしてなかったら?
やっぱり下に見てたよね。
田中さんは踊りに関して突出しているが、
「それ以外は全部下」というキャラクターだ。

だから、田中さんを下に見ている。

下に見てる人を評価する時のことばが、
「かわいい」である。

田中さんは恋しててかわいい、
田中さんは映画を見てかわいい、
田中さんは笙野に失恋しそう(婚約者登場で)でかわいい、
40歳で中学生でもやりそうな恋愛をしてて、
応援したくなる、かわいい、
という状態で、
田中さんの起こす笑いとは、
「恋愛初心者失敗あるある」の笑いだ。

それをほほえましいと笑うのは、
下のものにマウントを取った笑いだよな。


だから、
主人公である朱里には、コメディパートがない。
自分を下に出せるほど、
作者は出来た人ではなかったのだろう。

ダメ男あるあるで自虐する手もあるが、
進吾でも小西でも、
そこを笑いに変えられるほどの度量はなかった。

だから朱里は、終始微妙にイライラしている。
小西と付き合う前は、
結構瞳が覚めていた。
そういうことだろう。


少なくとも原作の絶筆7巻時点では、
自分を笑うほどの余裕のない朱里が、
ベリーダンスは尊敬できるけど、
それ以外全部初心者の田中さんを、
下に見て笑う構造になっている。

朱里が田中さんを笑ってなくても良い。
読者が、だろう。


これを「コメディ」と捉えた日テレプロデューサーは、
読解力がない幼稚園児かな?

おもしろいことは起きている。
おもしろいことを強調しようとして、
漫画的にオモシロ顔になったり、
ガビーンみたいな効果音になっている。

それは原作者が関西出身ということもあり、
オモロい時はオモロく表現する癖もあろう。

だけどこれは、
コメディではない。

むしろ、
「辛いから面白いことをしてせめて楽しくしよう」
という、逆向きの笑いだと思うんだよね。
サーカスは悲しいからピエロは笑ってるみたいなことだ。

それは前向きなコメディではない。

喜劇というのは、
「人生は生きる価値がある」というのが帰着点であり、
悲劇というのは、
「人生には生きる価値がない」というのが帰着点である。

物語をこの両極端に割った場合、
原作「セクシー田中さん」は、
悲劇としてスタートして、
いずれ喜劇に着地することを期待された物語だ。

だから、
コメディ=人生には生きる価値があるを、
頭からケツまでやっている物語ではない。



日テレ側の企画書はなんて書いてあった?
「9笑って、1グッと来る」だよ?

「グッと来る」は、
ピエロが笑い顔の下に沢山の悲しみを抱えている、
ことではないよね?

9笑ってる話でもなかったぞ?

何をどう誤読したら、
このようになるのだ?


もしあの原作を読んでそのようにしか読めないのなら、
相当低い読解力だ。
小学生でもそれくらい感じ取る子はいるぞ。

そしてそのような読解力こそが、
「物語を商売とする職業」に、
最初に必要なものではないか?

プロアスリートになるためには、
100m14秒はいるぞ、みたいな話だ。


もちろん、
原作はそのようなものと読解した上で、
「9笑って1グッと来る」という興行にします、
という、商売計画を立ててもよい。

ただこの場合、
「原作と同じものを」と主張する原作者とは相容れない。
悲劇的であり、ペシミスティックであり、
下のものを笑うことでしか笑えず、
自分を笑う度胸も器量もないものと、
同じものをつくるしかないのである。

僕は、
原作がつまらないとは言ってない。
おもしろかったよ。
それは、この悲劇的な状況が、
「これからハッピーエンドに向かう」ことが期待できたから。

朱里は幸せになれるのか?
どう自分を幸せにするのか?
田中さんは?
と感情移入できたからだ。

ただ、7巻時点ではその結論は出てないから、
「この時点までを評価する」ならば、
こうしかないと思ったのよね。


だから、この時点でのこの原作を、
ドラマ化するってどういう了見?
というのがわからんのよね。


小学館担当者の認識も甘いよ。
「こんなペシミスティックなものを、
9笑うコメディにできるの?」って、
一つも眉唾をつけてない。

「できます」という日テレプロデューサーに、
「やってみせてよ」だよね。

そして、それが原作者のやりたいことと合致してないのは、
初手でわかるよね?



読解力だ。
すべては読解力だ。

車のセールスマンが、
エンジンの性能や静粛性について、
知らないわけがあるまい。
車のセールスマンが車に詳しくなくて、
車を扱う商売ができるわけがない。
たとえ設計してなくても、整備してなくてもだ。

なぜ物語という商品を扱う人間が、
読解力がないのかが僕にはわからない。



なにを売るのか?

原作はこうである。こう売っている。
半分にしなければならないドラマを、
このように売ろうと思う。

合意しますか?しませんか?

煎じ詰めれば、それだけに失敗したのだ。



僕は、翻訳者は、
原作者より実力がなければならないと、
逆説的に考えている。

原作者に対する不遜や不敬ではない。
実務上の能力においてである。

だって原作が100やったことを、
翻訳者の実力が80なら、
80点の翻訳しかできないじゃん。

50は、30は、10は。

どうやったって劣化翻訳にしかならない。

名翻訳になるには、
原作者の100以上あること、
120くらいあると、
トラブル対応もしやすいから安心だよ。
簡単な算数だよ。



だから、原作つきの翻案なんて、
オリジナルを作るより実力がいるんだよ?

なのに、
「原作をそのままやればいいんだから、
実写化なんて簡単だろ」と、
30の脚本家を100の原作者に当てるから間違いなのだ。

そしてドラマをオファーするプロデューサーも、
5とか10でしょ?

成功するわけないじゃん。



僕は車田正美より実力があるか?
実写脚本に関しては3倍くらいあると思うよ。
漫画に関しては足元に及んでいない。
それでいいと思うんだ。
100対100がそれぞれに対等で翻訳しあえばいいんだよ。

なぜそうしないのかがわからない。

間に立つ者たちが、5とか10だからだよね?



さて、
少女漫画は、本質的に実写にならない、
と僕は考えている。

その話をして、セクシー田中さんの件を終えたい。
posted by おおおかとしひこ at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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