と僕は考えている。
メディアの特性が異なるから、
なんて上っ面の理由はよく聞くが、
じゃあ両者の本質はどう異なるか、
という本格的な議論を今回の件でしている人は、
誰もいない。
じゃあ俺がやるよ。
少女漫画とは何で、
実写とは何で、
どう異なるのか、という話。
少女漫画の主な舞台はどこか?
会社?学園?ダンス教室?
違う。そのような具体的な場所ではない。
「心の中」である。
少女漫画の華はナレーション
(=ボイスオーバー、モノローグ)である。
これは彼女がどのように思っているか、
という表現技法だ。
そして、
客観的に見ればどう思ってるかわかることを、
わざわざモノローグで語るのは、
無駄である。
とてもいい天気の日に、
【いい天気…】と思うことは、
少女漫画ではあまりないだろう。
(以下心の声を【】記号で書きます)
モノローグが効果的に機能するのは、
「客観的な状況と、主観的な思いが異なる時」だ。
たとえば「少女漫画ぽく愚痴る。」
から引用しよう。
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これは、
「客観的には、自転車に乗ってさわやかに彼氏と走る光景」
なのだが、
「主観的には、長時間かけたセットが無駄になる」
という、
「ギャップ」で笑いをとっているわけだ。
つまり、
モノローグとは、
客観状況と「異なる」ことを目的とした表現である、
といってもよい。
たとえば、
笑顔で「全然大丈夫」と言っている人でも、
心の中ではハラワタが煮えくり返っていたり、
ひどい悲しみを隠している、
などのような、「表面と内心が異なる」
ときにモノローグ表現を使う。
僕が少女漫画が「舞台は心の中」だと思うのは、
こういうことだ。
主人公は、容易には周りを変えることができない。
伝統的に女が現状を変えることは稀で、
女は現状に甘んじるしかできなかったから、
客観的な状況を容認していたとしても、
心の中では「違うことを考えている」わけだ。
それは女特有の心のあり方だと言っても良い。
男はこうではない。(断言するのもどうかだけど)
文句があるなら現状を変えろ、と考える。
少女漫画では、
文句があっても笑ってろ、と強制されるわけだ。
だから、そのギャップこそが、
少女漫画の描く主なモチーフになるのだ。
原作冒頭のシーンはどうだったか?
合コンの場面で、
心理テストと称して朱里の本音を覗き見たい男子たちに対して、
朱里は無難な可愛い答えを用意する。
かわいいー、まだ経験値が足りてないよねー、
と騒ぐ男子たちを見て笑っているが、
心の中では、
【男性陣の前で、本音なんか書くわけがない】
と思ってるわけ。
このギャップ表現こそが、
少女漫画特有の表現であり、
ひょっとしたら女特有の人間の在り方であり
(友達同士で笑ってるくせに、
その人がトイレに行ったら急に悪口大会になるのは、
外面と内面は常に違うことの反映だ。
男同士なら正面切って批判して、
改善を求めるように要求する。
最後は拳を出すかもしれないので、
拳で勝てるかどうかは重要だ)、
「物語の舞台」
だと僕は考えるわけ。
再び、
原作を忠実に再現した脚本をアップしよう。
セクシー田中さん原作準拠版#1.pdf
ここに出てくる、
「朱里NA」は、全部で42個ある。
これは実写表現としては天文学的に多すぎる。
ふつうあったとしても冒頭と尻の2だ。
少女漫画原作ということで多めに許容しても、
10でも多いと思う。
なぜなら、
実写の舞台は、具体的な場所と人の間にあるからだ。
実写は、そのルーツを舞台演劇にもつ。
具体的な舞台と具体的な俳優によって、
我々がいつも見ている光景を再現する。
だから演劇や映画やドラマは「見る」ものである。
これは、三人称視点である、
ということを言おうとしている。
これに比べて、少女漫画は「読む」ものである。
三人称視点と、一人称視点を並行させて走らせ、
そのギャップを「読む」ものである。
よく女たちが「察してよ」なんて、
男たちに文句をいうのを見る。
「今日何食べたい?」
「どこでもいいよ」
って言われてサイゼリヤに連れてったら「察してない」
といわれるわけ。
「どこでもいいよ」
【うまくて気分が良くなって、友達に彼氏に連れてってもらったところと、
自慢できるような店がいい!】
の【】を「読め」というわけ。
しかし男は「見る」しかしてないので、
見たまんまを解釈して「どこでもいい」と思ってるわけだね。
だから女は難しいと男は思う。
だから鈍いと女は思うわけさ。
普段からそんな二面のギャップにいる者と、
一面しか見てない者たちの差だよな。
で、
だから、実写のシナリオとは、
三人称で「見てわかるもの」を表現しようとする。
男が女に花束を渡すが、
女が頬を張り去ってゆき、
男は膝まで崩れ落ちるならば、
「この男はフラれて、悲しいのだな」と、
「見る」わけである。
その時に笑顔で立ち上がれば、
「もう立ち直ったの?」と我々は思う。
少女漫画的には立ち上がって微笑んだ外面に対して、
【世界が終わった…!】とでも書くだろう。
外面は笑っているが、内面は悲しんでいる、
などの「ギャップ」が少女漫画のメイン舞台だからだ。
そんな複雑なものを、
三人称視点のような単純なものに、
翻訳できるだろうか?
女の「察して」を、男的な「みたまんま」の世界に作り替えられるか?
僕は無理だと思う。
やり方はいくつかあるよ、もちろん。
「朱里はね、笑顔の時は大抵別のことを考えてるの」
と前振っておいて、
「経験が足りてないねー」とかわいいという男子に、
「そんなことないですよー」と笑顔をふりまけば、
「この女ろくでもないことを思ってるんだ」と、
我々は「見る」ことができる。
ただし「見る」までしかできないため、
【男性陣の前で、本音なんか書くわけがない】
とまで、
我々が「読み」取れるわけはない。
我々はエスパーではないからだ。
じゃあ、この42個の「ギャップの場面」を、
出来ないという理由でまるっとカットすれば、
三人称視点の物語になるか?
それは乱暴すぎる。
女の生きづらさ=外面と内面のギャップを、
全部捨てることになるからだ。
また、
少女漫画が実写三人称視点になりづらい理由が、
もうひとつある。
それはこのモノローグ表現の裏表なのだが、
「行動が少ないこと」だ。
そりゃそうだ。
表面上はさわやか笑顔なのに、
内面では異なることを「思っている」のだから、
行動には出ないわけだよね。
そして、
実写において、「行動しないこと」は罪である。
ヨーイ、アクション!という掛け声や、
シナリオの構成上の単位「Act」は、
シナリオは行動によって描写されることを示している。
僕はここの脚本論において、
「動詞の数をかぞえろ」という。
思う、言うは数えないものとする。
行く、走る、立つ、渡す、殴る、乗る、飛ぶ、
などを数えろと。
それはつまり、どれだけ「動いたか」を示す指標である。
実写は、「行動によって状況を変えること」の、
連鎖反応でものを描く。
それは、「動くこと」が本質だからだ。
動く=move=movieなわけ。
体が動くから、それが心の動きだと表現するのである。
悪口大会があるとき、
その場を立ち席を離れるのは、
「そこには参加しない」という意思を、
行動で示すことになる。
これがムービーである。
少女漫画ならどうするのかな。
【この人たち、私がいなくなったら今度は私の悪口をいうから、
話を合わせるしかないじゃない…】と、
笑顔(三人称)と、本音のギャップでも描くのかな。
いずれにせよ、
「行動で意思を示す」ことは、
実写に比べて少なくなるわけだ。
だから、
実写のシナリオの常識、
「行動によって世界を変える」から見ると、
この原作準拠版のシナリオは、
「行動が少なく、突っ立っているだけ」の、
下手なシナリオに見えてしまう。
なんなら行動せずに心の中で異なることを考えていて、
「そんなに文句あるならさっさと動けや愚図」
とすら思ってしまう。
だから、
思うことを止めて、
行動に移して、
行動の結果を描き、
再び次の行動をして、
状況を動かしていくようなものに、
変えなければならない。
これが改変の理由である。
この、原作準拠版を実写化すると、
「この子は文句ばかり心の中で言ってて、
実際には何もしない、ずるい子だな」になってしまうわけ。
本人から見たら一人称視点では、
「周りに合わせるのは生きづらい」だろうが、
客観的な三人称では、
「何も言わないで文句だけを思ってる子」に見えるわけさ。
そしてそれは朱里の実写的物語にならない。
原作では、
朱里の行動はすくなめだ。
どちらかというと受け身で、
周りで起こっていることに反応しているだけだ。
だから、実写的主人公になれない。
実写の主人公は、
行動的で、自ら状況を打破して、
どんどん話を前に進める人であるべきだ。
ドラマ「東京ラブストーリー」がなぜヒットしたかを考えると、
鈴木保奈美演じる赤名リカが、
行動的だったからだ。
受け身ばかりの女が多かった社会で、
特別行動的なエキセントリックな女だったからこそ、
実写の「行動」にはまり、
ドラマとしておもしろかったわけさ。
つまり、アクトレスになれたわけ。
「セクシー田中さん」において、
最も行動して、
最も状況を変えているのは誰?
田中さんだろう。
だから、田中さんが「主人公」扱いされるわけだ。
原作の主人公は朱里だと思う。
行動できなくて、
行動してる田中さんを見て憧れる、
「心の中」という一人称が、原作漫画だと思う。
だけどこれは三人称にはそぐわない。
だから、
大幅に改変して、朱里が行動していくか、
主人公を行動する田中さんにするしかないわけ。
原作を重んじるのならば、
難しい前者にトライしなければならない。
日テレ脚本チームとプロデューサーは、
安易な読解力によって、
後者を選んだ。
この、実写という表現媒体の特徴が、
小学館と原作者に伝わっていたとは、
両報告書の範囲ではとても思えない。
「実写では最も行動する人物こそ主人公」という、
実写の常識が伝わっていたとは思えない。
そうでなければ、
改変の苦悩、改変の理由を察することもできまい。
そして、「原作通りに」という、
実写的には間違ったものを突きつけられ、
困惑と混乱は続くことになるだろう。
僕がもしこの原作を渡されたら、
大幅に改変しない限り、
この原作の本質を描くことは困難だと回答する。
そして上のような議論をまず共有するだろう。
じゃあ実際に原作準拠版シナリオに起こす、もやるかもしれない。
ほら、行動は少ないし、モノローグ多すぎ、
となるだろうし、
「これを半分以下に縮めて、
なおかつ原作と異なるクライマックスを用意する必要がある」
ことも議論するだろう。
そして「原作者が原作通りにしたいと言っている」
と言う要望があるのなら、
決裂だろう。
だって無理だもの。
僕は、上の議論を、
読解力のないプロデューサーや間に立つレイヤーの人が、
うまく説明できるとは思っていない。
(昔は期待していたが、今は信用できないと思っている)
だから、直接このことを話させてくれ、
あるいは、手紙を書かせてくれ、
ということにしている。
その中で原作をともすると批判することにもなろう。
正しい姿を捉えるならば、
欠点を欠点と指摘することも重要で、
それを放置すれば実写のガンにもなりえるからね。
じゃあそれはどう改修するか、
という話し合いのベースになる。
手術するには診断が重要だと思う。
間に立つ者たちは、
波風を恐れる。
ボンクラほど、上の議論を理解できず、
自分に制御できないと思うだろう。
批判を診断と思わず、攻撃と捉えるだろう。
だから僕はこの場に起用されないと思う。
芦原妃名子は、
だからドラマスタッフガチャを外した。
しかも自分からドラマ化したいと願ったわけではなく、
いきなり白羽の矢を膝に受けたわけだ。
野良犬に噛まれたと思って、
などとレイプされた人にかける言葉があるが、
野良犬に噛まれて、抵抗して、死んでいったわけだ。
なんてことだ。
原作者から出た要望を、
伝えきれていない編集者が、
両報告書を見る限り最も罪が重い。
上がってきた脚本を見て、
「原作者の意向とだいぶ違うと思いますが、
説明してください」と言えなかったこと、
ないし、
説明を聞いても理解できなかったことが、
罪である。
「このままでは先生に見せられないと思います」と、
自分の責任において突き返すべきだった。
同時に、
自分でも僕が起こしたようなシナリオを書き、
「そもそも尺はどうなってる?」と、
土地と建物の関係を調べるべきだった。
原作準拠版のシナリオを編集者が起こすのは、
無理かな?
僕はこれくらいなら出来ると思うよ。
出来ないのは、物語を扱うだけの能力が足りてないんじゃないか?
そんな人に、僕なら担当になって欲しくないな。
「セクシー田中さん」には、
たくさんのボタンのかけ違いがあり、
そのことによりいろんな人が死んだ。
物理的にも社会的にも体制的にもだ。
この根本原因は、
少女漫画と実写の媒体の違いをわかってなかったこと、
だと僕は断じる。
わかってたら、「この原作はむりだろ」と普通に思うもの。
それでもドラマにしたいなら、
だいぶ変えないとね、が普通の判断だ。
そしてそれは、
原作の曲解を避けずにはいられない。
そんなことすらできずに、
甘い読解力で、
この原作を安易なドラマにしようとしていた野良犬たちが、
次に重い罪である。
すべては読解力の低さが原因である。
根本的解決は、国語教育の充実しかあるまい。
芦原妃名子先生よ、
この声が届いているだろうか。
何が一体起こったのか、
全体を僕の理解で解説した。
朱里は原作7巻時点ではまだ行動に出ていない、
せいぜい下手くそダンスをはじめた程度だけれど、
のちにメイクの仕事につくために、
行動を起こしていたのだろう。
進吾のことも小西のことも、
たぶん自分で決着をつけたんだと思う。
で、なんだかんだあって、
笙野が好きってなってたら面白かったのにな。
笙野をめぐって、田中さんと三角関係になったら、
かなりおもしろ展開になりそうだと思った。
その後半部分を、読んでみたかったです。
「セクシー田中さん」という物語は、
セクシー田中さんに出会った朱里が、
セクシー朱里さんになる話ではなかったかな。
この場合のセクシーとは、
エロ衣装腰振りダンサーのことではなく、
「自分の足でしっかり立ち、背筋を伸ばして生きる人」
の意味だと思う。
だから幼児体型の朱里でも、
コンプレックスの塊の朱里でも、
セクシーになれた、
というのが物語の結末であるべきだと、
僕は7巻までの原作から読解した。
これにて、
すべての議論を終えます。
一連の「セクシー田中さん」の事件に関する記事群を以下にまとめたので、
通し読みしたい方はどうぞ。
【ドラマで原作クラッシャーで騒がれて、原作者自殺、
三上Pの「たーたん」中止まで】
原作クラッシャーがトレンドだが
脚本家のせいではない、プロデューサーのせいだ
東京島という、プロダクションひとつ潰した映画があってな
走り出した列車は止められない
オリジナル脚本が書けないシステムの闇
脚本とは原作のセリフを並べている仕事ではない
脚本家とプロデューサーと原作者の距離感
伝言ゲームを廃止したい
「海猿」の原作料が200万円と聞いて
小学館の逃げっぷりがひどい
止まらない列車
日本事なかれ主義
【日テレ報告書が出た】
間に立つ者の責任
「難しい作家」
なぜ設定書を書くのか
分かりやすくコンフリクトをまとめてくれた図
【原作を読んで本腰を入れた】
これはドラマ化無理な原作です(漫画「セクシー田中さん」評)
【日テレの報告書を読んだ】
報告書の内容がひどい
凡才たちが一人の天才を潰した
尺の見積もりがおかしいので脚本に起こした
【脱線するけど本質的なこと(読まなくてもOK)】
渋谷駅の動線設計したやつ出てこい
明大前駅の動線設計したやつも出てこい
デザインの原則
【小学館報告書を読んだ】
ボタンのかけ違いは、初動で起きていた(セクシー田中さん小学館報告書)
「セクシー田中さん」はコメディか?
少女漫画は実写になりにくい (この記事)
(追記)
じゃあ少女漫画のモノローグを全部そのまま実写で再現するとどうなる?
という大失敗映画に、「私の優しくない先輩」がある。
全盛期の川島海荷を主演に据えておきながら、
彼女の最高ビジュアルをもってしても、
彼女の最高スイートボイスをもってしても、
「ぐだぐだ考えずにさっさと進行しろや」と、
苛立ってしまうこと確実だ。
一旦これを見て反省するべきではないだろうか。
こんなに大金をかけても、このやり方では失敗する、
ということにおいて、
各メンバーが方法論を共有することは、
僕はとても大事だと思う。
2024年06月08日
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