最近の映画があまり面白くなくて、
「RRR」が飛び抜けて面白かったのは、
何か理由があると思っている。
ネットによる監視社会の厳しさ、
上に蓋が詰まったような生きづらさ。
表現においては、コンプライアンス遵守。
「必殺仕事人」を例に議論したい。
最近相当な頻度で、
CMのセリフを丸くされる。
クレーム対策だそうだ。
それだけ企業はクレームを恐れている。
それによって内容が詰まらなくなることを問題だとは思っていない。
クレームが来ることを恐れているようだ。
ネット社会で炎上することが、
「もっともあってはならないこと」だと考えている。
後ろ向きすぎる。
前に何を目標とするのかがない。
ヒットを飛ばしたいとか、
楽しませたいとか、
心に染み渡らせたいとかだ。
映画やドラマが最近そうなのかはわからない。
だけど、「行動によって世界を変える」
ことが実写物語の本質なのだから、
行動が法令遵守の範囲内で、
世界を変えられるか?
という話なんよね。
エジソンやアインシュタインやジョブスが、
法令遵守の聖人だったろうか?
法令遵守は、とてつもない失敗を防ぐことには機能するが、
「型破りの成功」を阻害していると思う。
聖人君子が世界を変えるならいいよ。
でもそんな例はないと思うんだ。
そして、物語ならもっとだろう。
「めちゃくちゃ型破りが、
常識を変えて世界を変えてゆく」
というのはむしろフィクションの物語の、
最大の魅力のひとつである。
それが、コンプライアンス遵守で削られて行っている。
「必殺仕事人」とはどのような話か?
「法律で裁けない悪を、
法律の外で殺す、真の正義」の話だろう。
つまり前提になるのは、
「法は万能ではない」ことだ。
法律は完璧ではない。
なんなら、
「都合のいいように法律を曲げて解釈する」
「都合のいいように法律を変えてゴールポストを動かす」
ことすら、法の世界では行われている。
ロシアは国際法的に禁止の戦争をしているが、
まだ裁かれていない。
つまり、
法律には限界がある、とみんなうっすら思っている。
だから物語がそれを壊してスッキリするのである。
法律は万能ではないから、
法を破って正義をなす者に、
我々はカタルシスを覚える仕組みだ。
必殺仕事人はそういう話である。
そして古今東西、
「常識を、ルールを破る者こそ世界を変える」が、
物語の中でたくさん描かれてきたはずだ。
ダーティーハリーなんてまさにそうだ。
「アウトロー」こそヒーローの印ではないか。
アウトロー=法律の外であり、コンプライアンス違反だぞ?
つまりだ。
現代の「コンプライアンス遵守」の監視社会の中で、
行動はコンプライアンス範囲内ならば、
現在の世界の発展速度までしか描けず、
物語は世界に負けるんだよね。
だからつまらないんだよ。
方法は二つあろう。
コンプライアンスを破るアウトローの話をつくる。
怒られても「フィクションなので」と開き直る。
それは世間に対して誰が作家を守るか?
という問題も残す。
もうひとつは、
法が通用しない世界でアウトローのヒーローをつくることだ。
それはつまり、
「現代先進国では物語が作れない」
ことを意味する。
現代ならば中国やアジア諸国やアフリカなど、
発展途上国のルールでやればよい。
インドはまさにそうだ。
そうでなければ、現代でないところ、
時代劇やSFに飛ばすと良い。
そもそも実写物語とは、
今我々のそこにあるものを使いながら、
ここではないどこかを描くことである。
コンプライアンス遵守のかぎり、
それができなくて、
全然別のどこかの話しかつくれないことになってしまう。
現代のこのへんで、
コンプライアンス遵守で、
面白い物語が書けるのか?
ここ最近そんなのあった?
どんどん枯れてってるよね?
90年代の日本映画の勢い、今ないよね?
トレンディドラマが終わって骨太なドラマが出てきたあたりの、
ドラマに勢いがある?
日本が衰退して、予算がなくなったこともあろう。
しかし、じゃあ、予算を莫大にかけたVIVIANTは、
おもしろかった?
僕は見てないのでわからないが、
モンゴルというコンプライアンスの外でやりやがったな、
と僕は羨ましかったのよね。
予算はない。
縛りはきつい。
飛ばせない。
ここじゃないどこかへ飛ぶことが、
物語の楽しみだというのに。
ここじゃないどこかは「ここ」から遥か遠くになってしまい、
莫大な予算がかかる。
「ここ」は物語が生まれない。
かつては「ここ」に「ここじゃないどこか」があったのに、
監視しまくって、厳密にルール化して、
「ここ」は「ここ」でしかなくなってしまった。
今現代版必殺仕事人できる?
「ブラックエンジェルス」でいいよ。
雪藤が「地獄へ堕ちろ〜!」と、
スポークを頭に突き立てても、
「コンプライアンス違反が」で終了でしょ。
「昭和はめちゃくちゃやってた」は本当だ。
パワハラや法律違反もたくさんあったろう。
それでも、
「めちゃくちゃなやり方で、
世界を変えてゆく」物語はたくさんつくられた。
間違えなきゃいいだけなのに、
コンプライアンスが、
物語の到達点、射程距離を短くしていることに、
なぜ批判が集まらないのかまるで分からない。
必殺仕事人の前提は、
法は万能ではないことだった。
現代日本国の六法は、万能で完璧か?
9条すらもめとるやんけ。
そんな不完全なものを100%守る意味は?
事によればもっと過剰に適用しても良いし、
場合によってそこをはずすべき所も出てくるだろう。
その匙加減は、作家のものか?
それとも検閲者のものか?
アウトローの代表、ヤクザが、
暴対法でしおしおになったかな?
表面上いなくなっただけで、
もっと深いところに潜っただけでしょ?
分かりやすい悪は掃除されたかも知れないが、
分かりにくい悪、日テレプロデューサーや小学館編集者が、
のうのうと生きてるぜ?
悪の分量は変わらない説を僕はあげておく。
掃除してもゴミは増える。
世界は常にカオスへ向かうのだ。
コンプライアンスとか言ってる人は、
家や思考が散らかり、そこから何か新しいことが生まれることを、
理解してないんだろう。
常に整理整頓してないと気が済まない、
キーってなる人なんだろうな。
それが、
人間的な物語の魅力を、理解してるんだろうか。
物語とは、不完全なものの魅力だ。
人間がそうだからだ。
というわけで、
今日もコンプライアンスの声を、
意識から半分スルーしてゆく。
小さくまとまるわけにはいかない。
世界を変えるほどの力を蓄える。
必殺仕事人、どっかにいないかなあ。
2024年06月11日
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