2024年07月17日

ものすごく泣く場面

をつくってみよう。


泣くというのは大きな感情の振れ幅である。
そうした、めったに日常にはない、
何かしらの非日常を求めて、
観客は劇場にやってくる。

もちろん、毎日泣いて暮らす人は、
これを見ないかもしれない。
泣くことが日常だったら、
泣く話はあまり見ないだろう。
だけど、そういう人だって見るときがある。
それは、
「泣いてるけど、そのあとに希望があるとき」だ。

悲劇は悲劇だけで終るのではない。
そのあとにハッピーエンドがやって来る。
それを期待して、人は物語を見る。
悲劇ばかりで現実はやり切れないが、
だからフィクションで幸せをシミュレートするのだ。

で、だから、泣くことは、
フィクションにもっともよくあるシーンじゃないかとすら思う。


さて。
あなたの脚本に、泣くシーンはあるだろうか?

わんわん泣くのか?
すっと涙がこぼれるのだろうか?
悔し涙か?
嬉し涙か?
感謝の涙か?
慟哭か?
言葉にならずに涙しか出せない状況か?
文脈に応じて、いろいろな泣くニュアンスがあるだろう。



今考えたいことは、
ちょっと泣くのを、号泣に出来ないか?
ホロリから、慟哭に変えられないか?
だ。

感情の振れ幅は、大きければ大きいほどよい。
それがフィクションである。

ちょっと泣くのが号泣になったら、
「なにごと」となるからね。
それだけでも人の足を止めるに十分だということ。

ちょっとほろりと泣くくらいならば、
それを見に、
わざわざ劇場に足を入れることではないと思う。

もっととんでもない号泣や、
悲しみやショックこそが、
刺激として求められているものだろう。

だから、ケガするよりも死んだほうがいい。
病気になるよりむごたらしい死に方をしたほうがいい。
嫌いと言われるより二度と顔を見せないでといわれるほうがいい。
号泣しやすいからだ。

だから、フィクションの悲劇は、
たいていひどい。
そして、そのひどい悲劇から立ち直り、
成功するからこそ、
下から上までの上昇感があり、
それが高揚、カタルシスになるのだ。

ちょっと泣いたものから大成功に至るよりも、
号泣でどん底から大成功に至るほうが、
フィクションとして面白いということだよね。

もちろん、そこにリアリティがあり、
感情移入できなければ、
なんの意味もない。
ただ大げさにしただけの嘘だ。

そうではなく、
「もし泣くなら、もっと泣けるように作りなおせるか?」
を問うことは、
ストーリーの幅を広げるうえで、
ぜひ検討したほうがいいよ、
という話。


もちろん、
そんなに不幸にしてしまったら、
そんなにラストに幸福にするだけのストーリーをつくれていない、
なんてことがあるだろう。
感情の振れ幅に対して、脚本家の負けということだ。
負けないように、いろいろ考えることだな。

完璧な、小さな涙からの小さな幸せの話よりも、
多少無理があるが、号泣から大成功の話のほうが、
受けるよね。
豪快だもんね。
見てて気持ちいいもんね。
人に伝えやすく、わかりやすいもんね。

悪いところはひとつもない。
じゃあ、そうしたほうがいい。


もちろん、それがベタすぎて詰まらないことになる可能性もあるよね。
わざとらしくなるとか、大げさにすればいいってもんじゃないとか、
そういうこともある。
そうなるなら、
それは脚本家が下手なのだ。
ベタに陥らないで、
新しく号泣と大成功を描ければ、
脚本家の勝ちである。



起伏がなかなかつかない人がいる。
それは、
自分が書ける範囲に感情の振れ幅を収めているからだ。
そうじゃない。
もっと振れ幅があるような、
振幅の大きな話を書こうと努力してみよう。

多少無理があっても、
それがおもしろいならば、
観客は乗ってくれるぜ。

なぜなら、
非日常で冒険したいからだね。

とんでもない悲劇を、観客は求めている。
それが見世物ということである。

脚本は、あなたの日記やあなたが出来そうな妄想ではない。
誰か他人の、あなたと関係ない大冒険だ。
大冒険という見世物である。
posted by おおおかとしひこ at 06:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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