をつくってみよう。
泣くというのは大きな感情の振れ幅である。
そうした、めったに日常にはない、
何かしらの非日常を求めて、
観客は劇場にやってくる。
もちろん、毎日泣いて暮らす人は、
これを見ないかもしれない。
泣くことが日常だったら、
泣く話はあまり見ないだろう。
だけど、そういう人だって見るときがある。
それは、
「泣いてるけど、そのあとに希望があるとき」だ。
悲劇は悲劇だけで終るのではない。
そのあとにハッピーエンドがやって来る。
それを期待して、人は物語を見る。
悲劇ばかりで現実はやり切れないが、
だからフィクションで幸せをシミュレートするのだ。
で、だから、泣くことは、
フィクションにもっともよくあるシーンじゃないかとすら思う。
さて。
あなたの脚本に、泣くシーンはあるだろうか?
わんわん泣くのか?
すっと涙がこぼれるのだろうか?
悔し涙か?
嬉し涙か?
感謝の涙か?
慟哭か?
言葉にならずに涙しか出せない状況か?
文脈に応じて、いろいろな泣くニュアンスがあるだろう。
今考えたいことは、
ちょっと泣くのを、号泣に出来ないか?
ホロリから、慟哭に変えられないか?
だ。
感情の振れ幅は、大きければ大きいほどよい。
それがフィクションである。
ちょっと泣くのが号泣になったら、
「なにごと」となるからね。
それだけでも人の足を止めるに十分だということ。
ちょっとほろりと泣くくらいならば、
それを見に、
わざわざ劇場に足を入れることではないと思う。
もっととんでもない号泣や、
悲しみやショックこそが、
刺激として求められているものだろう。
だから、ケガするよりも死んだほうがいい。
病気になるよりむごたらしい死に方をしたほうがいい。
嫌いと言われるより二度と顔を見せないでといわれるほうがいい。
号泣しやすいからだ。
だから、フィクションの悲劇は、
たいていひどい。
そして、そのひどい悲劇から立ち直り、
成功するからこそ、
下から上までの上昇感があり、
それが高揚、カタルシスになるのだ。
ちょっと泣いたものから大成功に至るよりも、
号泣でどん底から大成功に至るほうが、
フィクションとして面白いということだよね。
もちろん、そこにリアリティがあり、
感情移入できなければ、
なんの意味もない。
ただ大げさにしただけの嘘だ。
そうではなく、
「もし泣くなら、もっと泣けるように作りなおせるか?」
を問うことは、
ストーリーの幅を広げるうえで、
ぜひ検討したほうがいいよ、
という話。
もちろん、
そんなに不幸にしてしまったら、
そんなにラストに幸福にするだけのストーリーをつくれていない、
なんてことがあるだろう。
感情の振れ幅に対して、脚本家の負けということだ。
負けないように、いろいろ考えることだな。
完璧な、小さな涙からの小さな幸せの話よりも、
多少無理があるが、号泣から大成功の話のほうが、
受けるよね。
豪快だもんね。
見てて気持ちいいもんね。
人に伝えやすく、わかりやすいもんね。
悪いところはひとつもない。
じゃあ、そうしたほうがいい。
もちろん、それがベタすぎて詰まらないことになる可能性もあるよね。
わざとらしくなるとか、大げさにすればいいってもんじゃないとか、
そういうこともある。
そうなるなら、
それは脚本家が下手なのだ。
ベタに陥らないで、
新しく号泣と大成功を描ければ、
脚本家の勝ちである。
起伏がなかなかつかない人がいる。
それは、
自分が書ける範囲に感情の振れ幅を収めているからだ。
そうじゃない。
もっと振れ幅があるような、
振幅の大きな話を書こうと努力してみよう。
多少無理があっても、
それがおもしろいならば、
観客は乗ってくれるぜ。
なぜなら、
非日常で冒険したいからだね。
とんでもない悲劇を、観客は求めている。
それが見世物ということである。
脚本は、あなたの日記やあなたが出来そうな妄想ではない。
誰か他人の、あなたと関係ない大冒険だ。
大冒険という見世物である。
2024年07月17日
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