2024年07月22日

凹んでいる時に足すべきではない

思ったほど良くないと凹んだ時、
さらに「足す」ことで足りないものを補充しようとする。

それはやめておけ。墓穴を掘る。


そもそも、
自分のやったことに客観性を持てていないことが、
凹みの原因である。

正しく自分を見れていないときに、
さらに要素を足したらどうなるか、
さらに霧の中に入ることになる。


もともとの原稿はひょっとして、
足し引きのちょうど良い塩梅になっているかも知れない。

なのに余計な要素を足して、
煮込み料理の味を変えてしまうことはいいことだろうか?

味変が良いのは、
前の味をわかっているときだけだ。

味変後の、訳のわからないものを初見で受け取る、
観客の気持ちになれていないぞ。




要素を足したいという衝動の原因は、
不安である。


理想やイメージや妄想に「届かなかった」、
だから「足す」のだと。
「足さなければ、届かない」と、
勘違いするわけだ。

ほんとうにやらなければならなかったことは、
その鍋をコトコト煮込んで、
全体に味が染み渡り、
体積が自然に減ること、
だったのかもしれないのに。

ただ不安でカレー粉をぶちこんで、
最初の材料の良さを消してしまうことは、
第一稿直後に、
もっとも良くあることなんだよね。


だから、
「足したい」「足さなければならない」
という衝動は、
疑った方がいい。

「ベストのイメージに対して、
届いていない」ことがその動機かを、
自分の心の奥を覗いてみることだね。

足さなくてもよかったのに、
ちょっと足りないぐらいが、
こちらの想像の余地があってよかったのに、
ということはよくあることだ。

絵が描き込みすぎてダメになることは、
絵描きならば誰もが経験している。

それは、「届いてないから、足さなければ」
という焦燥が原因なのだ。



もし足したければ、
その分量何かを引こう。

そのことによって骨格が変形して、
鍋の中の基本構成が変化する。

その鍋で煮込むべきか、
もとの材料で煮込むべきかで、
二つの方向性が分岐する。

どっちがいいかを見極めるのは大変難しい。
しかし、
足したから満足か、でいうと、
動機が不安なので、
まだ足さなければ、
と、また余計なのを衝動的に足してしまうだろうね。


僕はそれで失敗したことがたくさんある。

もっと引くんだ。
もっと純粋にしていくんだ。
もっと無駄をはぶき、
もっと純度を高めて、
結晶のようにするんだ。

それは、足したらできるわけではない。



ああ、理想に足りていない。
これを足せばよくなるのでは?
と発想するのは危険だ。

それを足したらじゃあ理想になるのか?
一回継ぎ足しでOKか?
をまた想像しよう。
何回何を足せば満足するか?
を事前に予測しよう。

たぶん、無限に足しても不安は除去できない。

なにせ、「ただしく客観的に見る」が出来てないからね。
動機は無限に要求してしまう。


これを防ぐには、
一旦企画書を書いたり、
ログラインを書いたり、
映画記事になることを想定して、
「新作『』は〜についての映画である。…」
のようにライター的な紹介記事を書いたり、
キャッチコピーを書いたり、
映画ポスターをつくってみたりすることを、
おすすめする。

これは、
一番外の視点を得る方法論だ。

他の似た作品と何が似ている?
どこが違う?と分析してみよう。

ハッキリ違うところを見つけられたら、
それがオリジナリティだし、
似てるところを見つけられたら、
それがジャンルになっている可能性が高い。
(たとえば「どんでん返しもの」とか)



「今俺は不安である」と、
不安な人ほど気づかない。
常に自分を疑え。
posted by おおおかとしひこ at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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