思ったほど良くないと凹んだ時、
さらに「足す」ことで足りないものを補充しようとする。
それはやめておけ。墓穴を掘る。
そもそも、
自分のやったことに客観性を持てていないことが、
凹みの原因である。
正しく自分を見れていないときに、
さらに要素を足したらどうなるか、
さらに霧の中に入ることになる。
もともとの原稿はひょっとして、
足し引きのちょうど良い塩梅になっているかも知れない。
なのに余計な要素を足して、
煮込み料理の味を変えてしまうことはいいことだろうか?
味変が良いのは、
前の味をわかっているときだけだ。
味変後の、訳のわからないものを初見で受け取る、
観客の気持ちになれていないぞ。
要素を足したいという衝動の原因は、
不安である。
理想やイメージや妄想に「届かなかった」、
だから「足す」のだと。
「足さなければ、届かない」と、
勘違いするわけだ。
ほんとうにやらなければならなかったことは、
その鍋をコトコト煮込んで、
全体に味が染み渡り、
体積が自然に減ること、
だったのかもしれないのに。
ただ不安でカレー粉をぶちこんで、
最初の材料の良さを消してしまうことは、
第一稿直後に、
もっとも良くあることなんだよね。
だから、
「足したい」「足さなければならない」
という衝動は、
疑った方がいい。
「ベストのイメージに対して、
届いていない」ことがその動機かを、
自分の心の奥を覗いてみることだね。
足さなくてもよかったのに、
ちょっと足りないぐらいが、
こちらの想像の余地があってよかったのに、
ということはよくあることだ。
絵が描き込みすぎてダメになることは、
絵描きならば誰もが経験している。
それは、「届いてないから、足さなければ」
という焦燥が原因なのだ。
もし足したければ、
その分量何かを引こう。
そのことによって骨格が変形して、
鍋の中の基本構成が変化する。
その鍋で煮込むべきか、
もとの材料で煮込むべきかで、
二つの方向性が分岐する。
どっちがいいかを見極めるのは大変難しい。
しかし、
足したから満足か、でいうと、
動機が不安なので、
まだ足さなければ、
と、また余計なのを衝動的に足してしまうだろうね。
僕はそれで失敗したことがたくさんある。
もっと引くんだ。
もっと純粋にしていくんだ。
もっと無駄をはぶき、
もっと純度を高めて、
結晶のようにするんだ。
それは、足したらできるわけではない。
ああ、理想に足りていない。
これを足せばよくなるのでは?
と発想するのは危険だ。
それを足したらじゃあ理想になるのか?
一回継ぎ足しでOKか?
をまた想像しよう。
何回何を足せば満足するか?
を事前に予測しよう。
たぶん、無限に足しても不安は除去できない。
なにせ、「ただしく客観的に見る」が出来てないからね。
動機は無限に要求してしまう。
これを防ぐには、
一旦企画書を書いたり、
ログラインを書いたり、
映画記事になることを想定して、
「新作『』は〜についての映画である。…」
のようにライター的な紹介記事を書いたり、
キャッチコピーを書いたり、
映画ポスターをつくってみたりすることを、
おすすめする。
これは、
一番外の視点を得る方法論だ。
他の似た作品と何が似ている?
どこが違う?と分析してみよう。
ハッキリ違うところを見つけられたら、
それがオリジナリティだし、
似てるところを見つけられたら、
それがジャンルになっている可能性が高い。
(たとえば「どんでん返しもの」とか)
「今俺は不安である」と、
不安な人ほど気づかない。
常に自分を疑え。
2024年07月22日
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