創作ストーリーをやったことない人は信じないらしい。
そんなの日常じゃんね。
https://x.com/Takashi_Shiina/status/1802374066592203224
オカルトでもなんでもない。
ストーリー創作というのは、
人格の分裂行為だと僕は思っている。
それが統合されるのが完結であると。
だから完結しない物語は統合に失敗した、
人格分裂現象であると。
藤子不二雄がドラえもんで確立した、
なぞの異世界訪問者、
主人公、
ジャイアン的な人、
スネ夫的な人、
しずかちゃん的な人、
という5人組は、
「持ちキャラ」ということもあるが、
藤子不二雄の「スタンダードな分裂人格」だとも思う。
もちろん、
解離が激しく社会復帰が無理ならば病気だが、
社会生活が送れる程度ならばそれは才能というものだ。
そもそも同一人格でずっと生きている人がいる、
というのが幻想だ。
いくつかのキャラを使い分けて人は生きているではないか。
それが極端に、そして物語的に面白くなったものが、
キャラである。
だから、
「キャラが勝手に動く」というのは、
人格分裂状態において、
今の主人格が感知する所以外で、
意識の管理外で動いた、
ということに過ぎない。
そっちの人格から見たら、
意識的に行動している、と僕は考えている。
意識がひとつしか認識できないだけだと。
さて、
だから、
「作者がすべてを把握して、
言語化できているわけではない」ということだ。
最悪、何も言語化できていないが、
ストーリー自体は面白く書ける、
という才能かもしれないわけ。
プロットをうまく書けない人は、
これの可能性がある。
よくプロットを書いているときに、
キャラが勝手に喋り出して、
プロットなのに会話文だらけになってしまうことがある。
その手間を省いて、
大づかみにすることがプロットの目的なのに、
そのキャラのことを考えていると、
喋ったほうがやりやすいぞ、
などとなってしまうわけだ。
その時は、勝手にしゃべるままに任せるとよい、
と僕は考えている。
それをまた俯瞰して、
俯瞰したプロットに直せばいいからね。
そんなものを何回もやっていると、
プロットを書くのは疲れてしまう。
なので、
「プロット慣れ」をしたほうがいい。
キャラの目線に下りずに、
俯瞰した状態でプロットを書ける精神状態をつくるべきだ。
もっとも、
プロットが出来ていても、
キャラが勝手にしゃべって行動してしまうので、
予定通りいかないことは多い。
そのほうが自然で面白いと思うからだね。
だから、
プロットに僕はあまりかまけていないほうがいいと思う。
よくできたプロットほど、
キャラクターの心情無視で、
キャラクターの目線に下りていないからだ。
そしてキャラクターが生き生きすればするほど、
プロットは変更されてしまうからね。
なので、
僕はプロットにそこまで重要な意味がないと考えている。
しかし商業の習慣として、
プロットがないものを書き始めることにゴーが出るとは思えない。
そして、そのプロットで良しあしを判断されてしまうことがよくある。
だから、プロットは書けるようになっているに越したことはない。
「自転車に乗れる」のと似たような、
スキルの問題だと思っている。
というわけで、
もしキャラクターが全員はっきりできていて、
勝手にしゃべれるならば、
どんどん執筆を進めてよい。
ストーリーの大まかなものだけが出来ているだけで、
勝手に転がるだろう。
ただそれだと全体のテーマとか、
取捨選択が難しくなるから、
俯瞰的なメスを入れるには、
プロットを見ていないとできないだろうがね。
そして、
プロットが出来ていても、
キャラクターが生き生きしないならば、
キャラクターが生き生きするまで、
試し書きを続けることを勧める。
勝手にしゃべりだすまで、
外には出さないことだね。
そうでないと、
「ストーリーを進めるための自動人形」みたいになってしまい、
感情移入に乏しくなる。
よくあるパターンは、
プロットが大体できていて、
主人公とヒロインは生き生きしているが、
残りは生きてなくて自動人形というやつ。
まさにセカイ系がこういうものになっていた。
なんなら、
ヒロインも主人公の願望を受け入れるだけの器になっていて、
生き生きしているのは甘える主人公だけになってまうものもあろう。
それをメアリースーというわけだが。
少なくとも、
生きたキャラクターは、
三人いたほうがよい。
二人は少ない。
その間の距離が離れるかくっつくかしか、
話をつくれないからで、
それはとても単調になるだろう。
三人になったら急に複雑になるので、
三人生き生きしたキャラクターをつくれれば、
うまく話が回せるよ、
ということはアドバイスしておこうか。
つまり、
「自分を三人の人格に割れるか?」
という話をしているわけだね。
そのとき、キャラが勝手にしゃべりだして、
勝手に話を進めてくれるだろう。
ある人格、
たとえば主人公が関知していないところで、
別の人格が勝手に行動するだろうね。
他の人格から見ていたら、
勝手に主人公が行動することもある。
作者は全知全能ではない。
あくまで、
通り道でしかない。
強調するが、オカルトでもなんでもないよ。
脳は統御人格をひとつとして認識しているが、
実際の脳の発火は複数で同時に起こっていることがわかる。
これを「私は一である」と統御しているに過ぎないだけさ。
そして、意識していない無意識のものが、
意識に上って来たときに、
「思いついた」になるに過ぎないだけだ。
プロットをあまり重視しない作り方は、
他人から見たら不安でしょうがないが、
本人から見たら制約が少なく、
自由度が大きくてやりやすい。
もちろん、プロットの柵があったほうがいい、
という人もいるだろう。
その塩梅は、
何度もやって慣れていくしかない。
また、
作品によっても変わって来ると思う。
それをメタで見ている人格が、
判断するしかないだろうね。
2024年06月20日
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