映画は娯楽物語である。
リアリティは重要なものの、所詮は見世物だ。
見て面白いほうが面白いのだ。
で、ただ人がいるよりも、
火がついている人のほうが面白いのだ。
淡々としている人よりも、
感情がひねくりかねって、
はらわたが煮えくり返って、
涙と鼻水を出して、
胸に熱いものを隠して、
それが隠せないほど駄々洩れしているような、
人こそが娯楽になるのである。
ミラーリング効果を持ち出すまでもなく、
その温度に当てられて、
観客のテンションがあがっていくことは、
とくによくあることだ。
だから、
火がついていない人よりも、
火がついている人のほうが娯楽にふさわしい。
その火がどうなるか、気になるからだ。
またAVの話をするが、
あまり感じていない女優よりも、
感じている女優のほうが興奮するよね。
もちろん大げさな演技は興奮しない。
ぎこちなくて、リアルな、
あまりリアクションの少ないところから、
「興奮してきました」という火のついた瞬間が、
一番温度が上がる。
この感じが、
娯楽というものである。
だから、最初からついているよりも、
火が付くとき、
火がついて燃え上がるときが、
一番見世物になるわけだ。
火がついてないときや、
ずっと燃え盛っているもの、
つまり定常状態は、
飽きちゃうんだろうな。
ということで、
火がついている人を描こう。
なんでだっけ。
動機が強いからだね。
なんで動機が強いんだっけ。
それをつくることを創作というのだ。
ものすごく自分のやりたいことをやりたい、
と思う人がいて、
それに情熱をかけ続ける人がいれば、
それだけでこっちは熱くなってくるというものよ。
あと、こちら側だけじゃなくて、
向こう側にも同じくらいか、それ以上の熱い火がついている人がいた、
という風になると、
また熱くなってくるものよ。
それを見たこちら側がさらに熱くなれば、
熱さというのは相乗効果が出てくる。
火がついている人が広がり、草原になってゆく。
もちろん、それが沈静化する、
落ち着きも描くべきだろうね。
そして再び燃え上がることを描けるかもしれない。
そういう起伏こそが、
人生そのものであり、
映画になるんじゃないかな。
2024年07月27日
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