2024年07月27日

火がついている人を見るのは楽しい

映画は娯楽物語である。
リアリティは重要なものの、所詮は見世物だ。
見て面白いほうが面白いのだ。

で、ただ人がいるよりも、
火がついている人のほうが面白いのだ。


淡々としている人よりも、
感情がひねくりかねって、
はらわたが煮えくり返って、
涙と鼻水を出して、
胸に熱いものを隠して、
それが隠せないほど駄々洩れしているような、
人こそが娯楽になるのである。

ミラーリング効果を持ち出すまでもなく、
その温度に当てられて、
観客のテンションがあがっていくことは、
とくによくあることだ。

だから、
火がついていない人よりも、
火がついている人のほうが娯楽にふさわしい。
その火がどうなるか、気になるからだ。


またAVの話をするが、
あまり感じていない女優よりも、
感じている女優のほうが興奮するよね。

もちろん大げさな演技は興奮しない。
ぎこちなくて、リアルな、
あまりリアクションの少ないところから、
「興奮してきました」という火のついた瞬間が、
一番温度が上がる。

この感じが、
娯楽というものである。

だから、最初からついているよりも、
火が付くとき、
火がついて燃え上がるときが、
一番見世物になるわけだ。

火がついてないときや、
ずっと燃え盛っているもの、
つまり定常状態は、
飽きちゃうんだろうな。


ということで、
火がついている人を描こう。

なんでだっけ。
動機が強いからだね。
なんで動機が強いんだっけ。
それをつくることを創作というのだ。


ものすごく自分のやりたいことをやりたい、
と思う人がいて、
それに情熱をかけ続ける人がいれば、
それだけでこっちは熱くなってくるというものよ。

あと、こちら側だけじゃなくて、
向こう側にも同じくらいか、それ以上の熱い火がついている人がいた、
という風になると、
また熱くなってくるものよ。

それを見たこちら側がさらに熱くなれば、
熱さというのは相乗効果が出てくる。
火がついている人が広がり、草原になってゆく。

もちろん、それが沈静化する、
落ち着きも描くべきだろうね。
そして再び燃え上がることを描けるかもしれない。


そういう起伏こそが、
人生そのものであり、
映画になるんじゃないかな。
posted by おおおかとしひこ at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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