Twitterから。
> 何日か前に、もしチャゲとアスカが同時に殴りにきたらどちらから倒すべきか、というツイートを見て、自分としてはなんとなく一緒に殴りに行く側として聴いていたので衝撃を受けた
https://x.com/omochi_shock/status/1803424193532535017
これは面白い視点だねえ。
かつて文化というものは、
「その人たちの視点で作られたものを、
同族で共有するもの」であった。
人類は同族でかたまり、
異民族を攻撃してのしあがってきた。
文化はそれを基盤にして花開いた。
だから、
「俺たちは正義だ、悪を倒すぞ、
俺たちは仲間だ、よし行こう」という物語が、
最も本能的に燃えるようにできていて、
これを勧善懲悪の型とよぶ。
これは戦争の肯定にも使われるが、
そもそもこれは太古の時代からの、
ワクワク燃える物語である。
戦記ものなんかは典型だろう。
ところが第二次大戦の反省、
その後の冷戦から、
我々は「敵も人類である」と、
相対的な視点を得たと思う。
敵は鬼畜米英ではなく、
同じ人間同士で争っているのだと。
だから戦いに意味はないのだ、
と一見悟ったようにも見える。
僕が最初にそれに触れたのは、
機動戦士ガンダムで、
それまで巨大ロボットアニメは、
悪の敵を倒す話ばかりだったものが、
急に「相手も人間で、国家の都合で兵士をやってるに過ぎない」
が沢山描かれた。
たくさんの普通のおじさんがいたし、
ランバラルやククルスドアンなんかもよかったよなあ。
以来、
色々な創作物で、
戦いとは、
正義対悪という単純なものではなく、
人間対人間の間でなされるもの、
という複合的な視点で描かれるようになった。
正義対正義(互いに主張し合う正義)、
とすら揶揄されるようになる。
ところが、
そのせいで勧善懲悪を楽しめなくなった、
という欠点も出た。
悪を倒す正義の、もっとも燃えるはずの物語が、
めったに作られなくなったのだ。
よっぽどうまく作らないと、
その燃えが発生しなくなってしまった。
だから、
物語は燃えるものではなく、
別の感情を刺激するものになる。
古来、戦うことに遺伝子的興奮を持つ男子は、
物語の消費から遠ざかり、
女子供が物語の消費者のメインになった。
男子はどこへいったんだろう。
ゲームで勧善懲悪の興奮をなだめるか、
Twitterの正義マンになったのだろうか。
このツイートの面白さは、
勧善懲悪という昔の型の、
逆側から眺めてエンターテイメント(笑い)にして、
複合的な視点を提出することである。
かつて、
「桃太郎に殺された鬼の子供」
という視点が提出されたことがあったが、
正義マンに殴られる側の視点、
という意味では同一だ。
ただし、
よく考えてみれば、
鬼は略奪を繰り返して財宝を貯めていたはずで、
金銀財宝や珊瑚で描かれているものの、
村人の命を奪ったり、女を犯したことは確実だろう。
殺されて当然だ。
法的裁判が機能してない時代だしね。
そうした「野蛮」こそが、
物語の原始的力であり、燃える根拠だったりする。
チャゲアスのYAH YAH YAHでは、
なんで殴りに行かないといけないんだっけ。
歌詞を読み込む限り、
「傷つけられて黙っているな」
ということらしいな。
尊厳を守るための戦いか。
何かに潰されそうになっていて、
黙ってしまって傷ついてる友人に、
「一緒に殴りに行ってやるぜ」と、
味方になってやる曲だ。
時代背景を考えれば、
「優しい男」がもてはやされた時代だ。
野蛮な時代は終わった、
我慢して優しさを演じるのがいいのだとなった。
そのときに心的軋轢があり、
やさしさで「べつにいいよ」と言ってる男たちが、
どこかで傷ついていた。
他人に価値観を握られるくらいならば、
誇りを取り戻せ、
という歌だったのだな。
ただし、一緒に殴りに行ってくれる友人は、
古今東西現れなかった。
ぎりぎり70年代くらいにはあったかな。
80年代も前半まではリアルだったか。
この歌は、90年代に入って、
そんな失われた野蛮を取り戻し、
野性を取り戻したいというギリギリのリアリティがあったように記憶している。
時代が下って2020年代。
コンプライアンスという美名で浸透して、
監視社会は完成した。
80年代のSFたちが想像した「超政府による監視社会」ではなく、
「チクって炎上させる」という、
密告型村八分社会として完成した。
そこに、内部の「傷つけられた尊厳」はない。
客観的に見てひどい/ひどくないはあるにせよ、
「ならば殴るのも当然」という擁護は少なく、
「暴力はよくない」だけが残ることになる。
そしてデジタルタトゥーだ。
その時の、「傷つけられた尊厳」はどこにもいかず、
恐らく自分より弱いものを傷つけることでしか、
発散されないだろう。
僕は、現代の方が不幸だと思う。
一緒に殴りに行こうか、
と言ってくれる友人のいる社会の方が、
実際に殴りに行くかはおいといて、
気が晴れるからだ。
このツイートは、
複合的な視点を見出す面白さはあるが、
「コンビニ店員が老害二人に怒鳴られる」
コンビニ店員側の相似形でしかなく、
自分が彼の尊厳を傷つけたかどうかの自覚がない。
実に現代的だなあ、と思ったので、
この周辺を考えてみた。
さて、脚本論的には、
このように、
複合的な視点で俯瞰できるか?
ということを解説したい。
殴りに行きたい側と、
自覚なくいきなり殴りに来られた側。
一緒に殴りに行く友人、
なんなら殴られに来た側に加勢する人。
おそらくTwitterでRTする人。
そうした人たちの気持ち、都合、線を、
それぞれ書き出して、
混乱のままどこへ話をもっていくかを、
コントロールできるか、
という話である。
それができれば、熱量のある話になる。
殴りに行く側が描ける。
店員側の迷惑しかないならば、熱量がないだろう。
結果、熱量対クールの話になるだろう。
で、
この殴り騒動は、
どう収まるのが結論としてよいのだろうか?
殴って尊厳を取り戻して、復讐は復讐を生むのだろうか?
殴られた側が訴えて、正義マンたちが老害をボコって終わりなのだろうか?
尊厳を傷つけた事件が明るみに出て、
喧嘩両成敗的な「すべてが明るみに出た」で、
スッキリするのだろうか?
僕は法律が全てだと考えていない。
それよりも大事なものが人間にはあるからね。
法はそれを守るためにも機能するけど、
不完全でそれを悪用するやつも現れる。
法律は、それを運用する奴次第でどちらの味方にもなる。
究極の訴訟社会のアメリカを見れば、
これが本当に正しい社会なのか、
よくわからなくなるよね。
複合的な視点だと、
「なんだかスッキリしない」んだよね。
炎上して、焼け野原になって、
一件落着感がない。
物語がつまらなくなったのは、
行き過ぎた複合的視点のせいかもしれない。
勧善懲悪型の燃えやワクワクが、
いなくなったからかもね。
そういえば映画が興行として盛り上がった80年代までは、
悪役にナチス残党がよくいた。
こいつらは絶対悪だから、
問答無用でボコボコにできた。
悪役として最適なキャラクターだったんだね。
ナチス残党にリアリティがなくなり、
ネオナチはまだ悪いことをしてないので、
世界は悪役を失った。
だから本能で勧善懲悪をしたくて、
ポリコレ棒を持ってウロウロしている。
物語が、
その本能の発散の場になれれば、
それはとても爽快なものになるだろう。
複合的な視点を持ちつつ、
それをやるのは生半可なことではないだろう。
だから難しいんだよな。
インド映画が面白いのは、
ぶっ殺せ!が出来るように、
巧妙に悪役がつくられているところだ。
みんなが一体となり、
応援するのが気持ちいいのは、
サッカーの熱狂を見てもわかるだろう。
その熱狂をフィクションが生み出せれば、
物語は面白くなる。
チャゲアスのYAH YAH YAHにはそれがあった。
しかし今は許されなくなっただろう。
フィクションの受難は、複合的な視点にあった。
戦争は抑止できているが、
フィクションの熱狂は消失しつつあり、
小さな不満ばかりが行き場を失っている。
どちらが幸福かはわからぬ。
わからぬから、
視点を変える遊びをして、解消するしかない。
これそのものは、不幸だと思う。
さて、
殴りに来た話は、
どう決着をつければ現代的なテーマに落とせる?
一件落着ほどスッキリする?
させるために、どういう前提条件をつければいい?
視点を変えるだけではふつうである。
よきストーリーテラーならば、
前提条件をうまくつくって、
オチでスッキリするように、
改変しなければならない。
(僕は思いつかなかったので、丸投げて終わりにします)
2024年06月22日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック