2024年08月01日

オリジナルとは狂気の孤独である

オリジナリティがある!
斬新!
独自に作られたまったく新しい考え!
そんなヒーローを人は求めている。

ところがそれを生み出す側は、
誰からも理解されない孤独がある。


あれをああしたらこうなるはずだ、
それは今まで世界になかった、
斬新なものになり、
ヒーローになれるはずだ、
という見積もりで、
僕らは何かをつくりはじめる。

だが、
それがうまくいかないとき、
まだ最後までできていないとき、
誰の助けも得られない。

誰かにアドバイスを求めようものなら、
「それが理解できない(なぜなら完成してないから)」
ゆえに、
「これまでと似たものに寄せる」アドバイスしかないのよね。
「AがBという形ならば理解できる」
という客観的感想しかないのよ。

Aをやりたいのに、
BじゃつまらないからAをやりたいのに、
Bにしろと言われるのよね。

そりゃそうだ。
まだAは世の中にないから、
想像できないのである。

だからBでしか理解できない。
同語反復だね。


コロンブスの卵を思いついたのに、
殻を割る器用さがない状態、
といえるだろうか。

この状態で他人に相談しても、
「箸やスプーンで支えにすれば?」
「三個で寄りかかるようにすれば?」
などと、
これまであった方法論でアドバイスされるに違いない。
「そんなの無理だよ。
これまでにできた方法論を組み合わせた方が安牌だよ」
と、
止められるに違いない。

そこで、
コロンブスの卵に挑戦せずに、
「常識的な方法」に戻って、
平凡な作品を生み出してしまうわけだ。


それは、自信がないからか?

そうじゃない。
自信なんてあるわけがない。
だってまだないものの話なんだから、
確実にものにできる保証はない。
自信があるとすればそれは誤りである。
自信とは、過去の経験でしかないからだ。

ということで、
作者は常に不安なのだ。

不安だから、常識的な範囲にとどめてしまうのだ。

誰からも理解されない孤独が不安で、
他人と会話できるレベルで満足してしまう。


この不安を振り切るのは、
狂気しかないと思うんだよね。

それが絶対良い、
それが絶対革新的である、
それが不安の先にあると信じる、
狂気が駆動力になるわけ。

その結果出来上がったものが、
斬新でも革命的でもなく、
ちんけな陳腐なものである可能性は、
とても沢山ある。
それは、これまで沢山書いてきた人ほど知ってるだろう。

狂気駆動でやったとしても、
ガラクタしか産まない役立たず発明家という、
人生で終わる可能性の方が高いのだ。


だから、
斬新なものを作る人は、
常に狂気の孤独の中にいる。

成功率は知らない。失敗率はかなりある。

これに耐えられる人だけが、
斬新なものをつくれる。
頭のネジが飛んでる人、という意味でだ。


かつては、
パトロンがつき、
狂気の孤独を多数飼っていた。
一生を保障するから斬新なものを生涯生み出せと。

大企業の社員で、
そういう立場の人もたくさんいたろう。
リストラが流行り出して、
そういう人たちを飼ってる余裕がなくなり、
野に放たれ、彼らは野垂れ死にしたか、
家族のために狂気を封印したかのどちらかだろう。

結果、斬新で時代を変えるものは、
どんどん作られなくなった。


文化が豊かになるときは、
そうしたパトロンがたくさんいる時で、
狂気の孤独がたくさん飼われているときだ。

創作畑の人は、
会社員をしながら、夜だけその狂気を解放している人が多い。
でもその狂気だけじゃ、
孤独が足りないと思うんよな。
だから、Twitterでたくさん見る割には、
到達者が少ないように思う。



狂気の孤独に、一生いられるか。
いられた時に、斬新な作品ができる。
ずっといても、凡作しかできないかもしれない。

あなたはスタンスを決めなければならない。
この世界は、孤独なはみ出し者しかいられない。
posted by おおおかとしひこ at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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