2024年06月23日

改変か補完か

Twitterから。
> 原作改変でいろいろ言われたアニメ版聖闘士星矢。
> 原作改変で絶讃された実写版風魔の小次郎。
> 同じ改変でも「いらんことしてくれて」と「よくぞやって下さった」の分岐って何処なんだろう。

前者は改変、後者は補完、
だと考えられる。


アニメ星矢は、
「原作に追いついちゃうから、
オリジナルエピソードで持たせるしかない」
という事情があったことは書いておく。

持たせるオリジナルとして、
氷河の師匠を登場させたら、
原作で師匠カミュが登場して、
「二人の師匠」に矛盾してしまい、
「ええい、師匠の師匠にしたろ」
とするしかなかったのは、
まあ同情に値するよなー。

もはやそんな「当時の原作とのレース」
のようなものは、忘れられつつあるのだろうか。
アニメ版だけ履修したら、
「さっさと進めばいいものを、
ちょいちょい改変挟んできてうざい」
に見えるのかもしれないと思った。

しかも当時のアニメは毎週30分休まずやってた。
鬼滅みたいにシーズン○とかないんだよ。
自転車操業もいいところだったろう。

当時の東映も、
ここまで長く続くコンテンツになるとは思ってなかったから、
今になって直したいところ沢山あるに違いない。
じゃあ再アニメ化やったら、
今ならどういう改変をするかな?
というのには興味があるよね。


実写風魔の話をしておく。
僕らがやったことは、「補完」である。

原作がやろうとしたことを忠実に守り、
隙間があったところは埋めて、
到達しきれなかった頂に登った、
稀有な作品だと思う。

それをやれたのは、
「ドラマの尺が原作より遥かにあり、
しかも制作時点で完結していたから」
ではないかと思う。

車田先生の漫画は、
良くも悪くもスピード感だ。
漫画一話が実写の尺ではすぐ終わってしまう。

わりと原作に忠実な、
アニメ夜叉編が30分6話=180分だったことを思い出されたい。
実写夜叉編は30分13話=390分。
アニメ版の倍以上の尺がある。
だから、空白隙間だらけになる。

それを「何で埋めるか?」で、
僕らは、
「完結しているものを補完する」を、
選んだわけだ。

車田先生のスピード感は漫画ならではだ。
ページをめくる、という物理行為とペアである。
座って、あるいは寝っ転がって受動的に見るテレビとは、
スピード感、参加してる速度感が違う。

だから、補完した上で、
スピード感を考え直さなければならない。


アニメ星矢は、
「完結してない状態での補完」を余儀なくされた。

原作が完結していれば、
テーマが確定していて、
それに対して必要なものと必要でないものを、
判断することができる。

完結してなければ、
場当たりのカンしかあるまい。

これが、改変か補完かの、
分水嶺になったのではないか。


鬼滅のアニオリが評判が良いのも、
原作が完結していて、
スタッフも観客も、
そこに必要なものと必要でないものを、
判断できるからじゃないか。

どうなるか分からないものを補完することは、
誰にでも難しいと思う。


そういう意味で、
実写風魔は、よく「公式二次創作」などと言われた。

腐女子が喜ぶポイントをわざと入れる、
という計算をしなければならない(商売上の戦略)
という事情はあったにせよ、
「補完」という行為は、
二次創作ではよくある手法だからだ。

二次創作における補完という手法は、
完結していればしているほど精度が高くなる。

テーマがはっきりして、
足りない領域、補完するべき方向性が、
読み取りやすくなるからね。

実写風魔では、
各キャラクターを彫り込むことは、
最初から確定していた。
原作尺の倍以上ある枠で、
影三兄弟なしで夜叉八将軍をいきなり招集してるから、
そりゃ彫り込む尺はたっぷりある。

僕がやったことは主に、

・部活対決の裏でバトル=表で試合、裏で死合

・小次郎の成長を描く。山猿小次郎が風魔の小次郎になる。
 父としての代表=竜魔、恋する守るべき対象=姫子、
 外部の友達=蘭子、絵里奈、内部の友達=麗羅
 尊敬する兄、項羽の死によって「自覚」のきっかけになり、
 風林火山の習得によって一人前に

・壬生をトリックスターとする。
 黄金剣を奪って逃走、ラスボスに(真のラスボスは武蔵だが)
 裏のトリックスターを陽炎にする

の三点。

これは、「30分ドラマのリズムをつくる」ことと、
「部活試合ループをしてるように見えながらも、
徐々に話が進んでいく」ように、
構造を変更したからだ。

一直線で進む原作/アニメに対して、
時間軸の構造を「毎週30分13話」に適したように改変した。

実はこの(見えない)枠組みこそが、
最大の改変なのだが、
見えてるものは「原作に忠実なバトル」と、
「原作を補完した見事なふくらまし」なので、
見てる側は気づかぬうちに大河ドラマに夢中になる、
という計算をしている。

つまり、事前の計算ができていたから、
というのがアニメ星矢と実写風魔の違いである。


もっとも、
事前計算がどれだけ出来ようと、
脚本を組む才能というものがある。

だから東映が今アニメ化するとしたら、
という仮定をしてみたんだね。
実写映画版星矢のわかってなさを見るにつけ、
うまくできる保証はなさそうだ。

何が言いたいかというと、
実写風魔は、脚本チームの才能にめぐまれた、
ということだ。

巷では「風魔愛」の凄まじさが語られる。
だからうまくいったのだと。
でも愛があっても才能がなけりゃ何もできない。

プロの仕事とは、愛以前に才能だ。
どう補完すればただしいか?
どう補完すれば原作を本来あった可能性に飛躍させられるか?
この補完は原作を台無しにしてるか、してないか?

その判断が正しくなく、
そして補完したものがそもそも面白くないならば、
それは才能がないということだ。

たしかに実写映画星矢で、
クロス装着時にペガサスファンタジーが流れた時は、
愛を感じたよ。
でも、愛だけでは物語は楽しめない。
脚本には絶対的な才能(技能)がいるのだ。


アニメ星矢では、どんなに才能があったとしても、
完結してないものの補完は無理だろう。
この補完がただしいのか、ただしくないのか、
あとで答え合わせさせられる博打だからね。


才能が先、愛はおまけ。
愛が先で、才能がなけりゃ、
「下手くそな二次創作」になっちゃうよな。

つまり、
実写風魔の脚本チームはもっと栄誉を受けるべきだ。
いや、観客の方はそこまで事情を知らないから、
ああこんな人たちが脚本書いてるんだなー、
とクレジットを眺める程度で良い。
だけど、業界内部の評価はもっとあって然るべきなんだよな。
でも評価されないのは、
放送枠がマイナーで、誰も見てないからじゃないかなあ。
(ということで配信希望を東宝さんに投げよう!)



改変には目的がある。

そもそも、原作と放送枠の尺の齟齬があること。
(セクシー田中さんの件では、
僕が実際に「原作まんま」の脚本をつくり、
ドラマでは半分以下に内容をカットする必要があったことを示した。
http://oookaworks.seesaa.net/article/503544325.html
だけど日テレサイドは「原作の尺が足りない」と嘘をついている。
隙間にオリジナルを捩じ込む気満々だったのだろう)

そもそも、漫画的表現は実写では不可能なこと。
(CGは金がかかる)

そもそも、リアルな人間が演じるキャラクターは、
漫画よりもリアルな存在になってしまうこと。


だから、
「同じテーマ、同じキャラクター、同じストーリーラインを共有した、
パラレルワールド」になることは最初から決まっている。
「翻訳」とはそういうことである。

575の俳句を英訳しても、
あの感じが出てるとはとても思えないよね。

でも、
いい翻訳と、よくない翻訳がある。

アニメ星矢は、自転車操業による都度改変、
実写風魔は、腰を据えた補完、
というのが主な違いではなかろうか。

実写映画星矢は、解釈違いになるのかな。


セクシー田中さんの改変は、
僕がドラマ版を見てないから比較議論ができないが、
日テレの「原作が足りない」嘘発言を見ても、
生駒里奈の役を膨らませて、
各事務所に声をかけてつくった劇団を30分枠で運営する、
という、
原作の再現よりも、テレビ的な劇団運営が目的であったことが、
状況から読み取れる。

原作者をそのように納得させられず、
原作者が忠実なものを望んだため、
決裂の悲劇が起きたのだと僕は考えている。



改変には意図がある。

それが良いかどうかは、
やはり才能が決める。

朱里が主役のセクシー田中さんを、田中さん主役にするのは、
読解力がなく才能のない改変だ。

原作小次郎が竜魔や霧風や武蔵に比べて後退していたのを、
きちんと「風魔の小次郎」への成長物語にしたのは、
読解力があって構築力補完力があった、
僕らの才能によるものだ。


悪い改変はつまり、
「原作をわかってない」「改変後もつまらない」で、
良い改変は、
「原作をわかってる」「改変後よくなった」
でしかない。
それを分けるのは補完力であり、
すべての基盤は読解力じゃないかと僕は考えている。

まあ、アニメ星矢は不幸だった。
自転車操業で原作がすぐに尽きたのだから。

それでもなお、ペガサスファンタジーを創作できたことは、
最大の補完功績だと思ってる。
あのギターリフの前奏を聞くだけで燃えるものね。

鋼鉄聖闘士とか訳のわからないやつをオミットした、
原作に近い再編集版とかないんだろうか…
(それがKnights of Zodiacなのかね。未見だが)




改変には目的がある。

アニメ星矢の改変目的は、
原作星矢をアニメ化しつつも、
追いつかれないように都度都度オリジナルで間を持たせること。

実写風魔の改変目的は、
徹底的に補完して、ドラマとして完璧なものにすること。

実写映画星矢の改変目的は、
よくわからない。
辰巳や姉パートはよかったが、それは枝葉であり幹ではない。
最大のウリになるはずのアクションが、
マトリックスよりつまらない。
実写アクションには殺し合うだけの動機が必要だが、
そこまでうまく改変できていない。

セクシー田中さんの改変目的は、
集めた芸能人を過不足なく輝かせる劇団運営であり、
原作の忠実なドラマ化ではない。


まあ、実写風魔の、スタート状況がかなり良かったんだな。
U局深夜だしだし失敗しても目立たないし、という自由にできた安心感も、
プラスに働いたね。



(追記)
そもそもなんでこの話がまた出てきたのか、と調べると、
ブラックジャック再実写化
(最初の実写化は加山雄三版。結構出来が良い)で、
ドクターキリコが女体化したからか。
現時点ではなんとも言えないが、
不信感のほうが強い今、
なんのための改変?という疑問符は出るね。
それに「なるほど!それしかないわ!」を出せるかどうかで、
評価は変わってくるだろう。

加山雄三版では、
「素顔の加山雄三を常に出すことで、
加山雄三も得するし、特殊メイクの費用も抑えられる」
というアイデアがあり、
そのことで「手術の時だけブラックジャックになる、
変身ヒーロー」が誕生した。
うーん東映だ。
それが案外良かったのよねー。
そんな「なるほど!」が今回あれば、みんな納得する。
なければ炎上だな。

(追記)
セクシー田中さんの件に関しては、
かなり義憤を感じたので、
詳しく議論している。
http://oookaworks.seesaa.net/article/503588547.html
の最後に全記事リンクをつくったので、
興味ある方はどうぞ。
posted by おおおかとしひこ at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック