これはすべての表現で共通しているかもしれない。
自分でパフォーマンスしたと思うことと、
実際にされたものの間には開きがある。
それを学ぶことだ。
試しに、自分のカラオケを録画してみるとよい。
気持ちよく歌っているのに、
へんな人がへんなことをやっているだけになってて、
死にたくなること請け合いだ。
カラオケじゃなくて、何かに文句を言っている様を録画してもいいよ。
なんと醜い生き物か、と自己嫌悪がひどくなることだろう。
生きててすいません、になるに違いない。
だから、我々は書くのであろう。
現実で恵まれているならばわざわざこんなに手間のかかることをする必要はない。
我々はものすごく大変な書きものをやらないではいられない、
それしか生きるすべを知らない、
哀れな人種なのだ、
ということを自覚しよう。
そして、
その「思ったこととパフォーマンスがずれている」
ことを、
「書いたつもりのものと、実際に書かれたもののギャップ」
で確認するべきだ、
というのが本題である。
自分は傑作を書いたつもりなのに、
もしそれがカラオケビデオのような、
みっともないものであったとしたら?
もう首をくくるしかないではないか。
だが安心してほしい。
誰でも最初は、
自分がやったつもりのものが、
実際に出来上がったものよりも、
だいぶ上であることがほとんどなのだ。
つまり、多くの人は勘違いをしているだけの話だ。
実際にビデオで撮って確かめるわけでもなく、
実際に読み返すわけでもないのだ。
役者がモニタをチェックしていたり、
歌手がヘッドホンで自分の歌を聴いているのは、
その上がりを確認するためもあるけど、
「自分の出力のつもりと、
出来上がったもののギャップ」
を確認している作業でもあるんだよね。
芝居や歌ならば、
短いからチェックできるけど、
ストーリーの場合、
「頭から尻まで一気読みした感覚」
を考えなければならない。
だから難しいんだ。
「やったつもり」なのに、
「出来ていない」ことが多いのである。
逆に、「やってないつもり」なのに、
「意外とできてる」はほとんどない。
どうやったって、
「自分が狙ったものの、劣化」しか存在しない。
だから死にたくなるのはよくわかる。
だが、ほとんどの人はそうして鏡を見ずに死んでゆく。
鏡を見て、修正する勇気がないからだ。
だけど、今よくないことが分かったのならば、
それはさらによくできるはずだ。
今以上によくできるチャンスを得た、
と思ったほうがいいね。
もちろん、
自分にコンプレックスがあるゆえに、
実際の出来上がりよりも過小評価してしまう場合がある。
それもよくない。
自己承認欲求や自己愛が強くて、
実際の出来上がりより過大評価するのもよくない。
なるべく、ただしい姿を評価しなければならない。
それは、書いた熱がまだ残っていると難しい。
思ったよりたいしたことないことを認める勇気が出ないし、
可愛がりすぎて、正しい醜さを自覚できないこともあるからね。
「言ったつもり」「聞いてない」
というのはビジネスでもよくあることだ。
「書いたつもり」「書けてない」なんてことは、
脚本づくりでは、かなりしょっちゅうある。
自分は思ったほど書けない作家だ、
と自覚することだ。
だけど、だから改良する余地があるわけ。
リライトで大事なのは、
「書いたつもりに現状がなっていないならば、
そのつもりの水準まで書き上げること」だったりする。
ここまでのスペックで書いたつもりなのに、
そうなっていないならば、
そうなるまで書き直すしかないんだね。
「その通り、ここまでのテンションになるように、
書いたつもりだったんだよ!」
となるまで、
直し続けることだ。
もっともそれができる実力があるならば、だが。
ないならば、
絵に描いた餅でおしまいだ。
餅が絵から出てくるまで、書き続けることだな。
出力と上がりのギャップを確かめ続けることでしか、
その力は養えない。
2024年08月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック